Vol.425
2022年9月26日 公開
1857年9月26日(新暦11月2日)は、ポンペが長崎で西洋医学の講義を開始した日だそうです。
この年、ポンペは28歳。日本の軍医派遣要請に応じて日本人に西洋医学を指導するために長崎にやってきました。
長崎奉行所西役所(現在の県庁跡地)の医学伝習所で行われた最初の講義を受講したのは松本良順とその弟子たち12名。
のちにポンペは、1日8時間にもおよぶ臨床医学の講義を行う一方、長崎奉行に願い出て、1859年9月、二十六聖人の殉教地である西坂の丘で囚人たちの処刑後の献体による死体解剖実習を日本で初めて実施したのでした。
これには市民も反感を抱いたようですが、長崎滞在の5年間で1万4千人以上の患者を治療し、コレラや梅毒の上陸を阻止する努力を重ねるなど、その精力的な姿に人々は次第に信頼と尊敬の念を抱くようになったといわれています。
そして貧富や身分の上下、日本人や西洋人の区別なく患者の治療に尽くしたポンペの願いは、長崎大学医学部の前身である小島養生所の誕生という形で結実したのでした。
ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト。
これがポンペの正式な名前ですが、市民や医学生は彼のことをどのように呼んでいたのでしょうか。
彼の肖像をみると少々気難しそうな印象ですが、きっと親しみを込めて「ポンペ先生!」と呼んでいたのではないかと想像します。
「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい」
長崎大学医学部建学の基本理念でもあるポンペのこの言葉からもそれはうかがえます。
(文:ヒラモトヨシノリ、イラスト:ナカムラタエ)