Vol.421
2022年8月29日 公開
島原・天草一揆の勃発をきっかけに海禁体制が確立されると、1644年に最後の宣教師が殉教し、信徒たちは共同体を組織してひそかに信仰を守り続けました。
そんななか、1708年8月29日、一人のイタリア人宣教師が鹿児島県屋久島に上陸しました。その名はジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ。
彼は、イタリアの貴族の出身で特定の修道会に属さない教区司祭でした。弾圧が激しかった当時の日本の状況はすでに派遣された宣教師から聞いていたようですが、それでも渡航の意志は揺らぐことなく日本に向けて出発しました。
そしてなんと和服を着て腰に刀をさし、頭は前頭部から頭頂部にかけて髪を剃り上げた月代(さかやき)という侍の姿で屋久島に降り立ったのです。
しかし、言葉が通じないことなどから怪しまれ、役人に捕らえられて長崎へ。そして翌年には江戸に護送され、幕政の指導者だった新井白石に直接尋問を受けることになりました。
彼の人格の高さや学識の深さに感銘を受けた白石は、学問に関する様々な対話を行い、その内容をもとに『西洋紀聞(きぶん)』を著述しました。
シドッティは、宣教しないという条件で、その後も江戸の切支丹屋敷に幽閉され、厚遇を受けていたのですが、世話係をしていた老夫婦が十字架を身に付けていたことから彼らを洗礼したことが発覚。
老夫婦とともに地下牢に移され、1714年、衰弱死で人生の幕を閉じたそうです。来日からわずか6年後のことでした。
まだまだ知らないドラマがある潜伏キリシタンの歴史。来週も引き続き、シドッティにまつわる話をご紹介します。
(文:ヒラモトヨシノリ、イラスト:ナカムラタエ)