Vol.490
2024年1月15日 公開
今と比べものにならないほど寒かったといわれている江戸時代の冬。そんななか1614年1月、全国にキリスト教禁教令が発布されました。
豊臣秀吉の後を継いで江戸幕府の基礎を築いた徳川家康は、当初、キリスト教の布教に寛容だったといわれています。
しかし1609年、マカオで日本の朱印船とポルトガルのデウス号との間にトラブルが発生し、日本の乗組員が殺されたことから長崎に入港していたデウス号を撃沈。幕府直轄地に禁教令が発布されたのです。
当時、日本の人口は約1200万人、そのうちキリスト教信徒は約20万人、多いときで50万人を数え、長崎は一時イエズス会の領地のような状態でした。
日本にやってくるポルトガルやスペインの貿易船には宣教師が同乗しており、貿易を始める土地では必ずキリスト教の布教を許可することが条件となっていました。
この頃すでに鉄砲は日本で製造されていましたが、弾丸に使用する鉛や、爆薬の原料となる硝石などは生産されておらず、南蛮貿易に頼らざるを得ない状況でした。
こういった状況のなか家康は、諸大名の軍事力を削減するため、幕府の許可なく築城や改築を行うことを原則禁止とし、諸藩が所有している大船を没収、新たな建造をも禁止し、南蛮貿易の禁止とともにキリスト教禁教令を発布したのでした。
外国に対しては鎖国を実行する一方、キリスト教の布教を強く求めないオランダとは幕府だけが貿易を行い、国内では諸大名を厳しく統制した江戸幕府。
これにより可能となった長期政権が、潜伏キリシタンたちに気の遠くなるような長い冬の時代をもたらしたのでした。
(文:ヒラモトヨシノリ、イラスト:ナカムラタエ)