Vol.452
2023年4月17日 公開
1868年4月17日(新暦6月7日)は、明治政府によって捕らえられた長崎浦上のキリシタンの流罪が決定した日です。
いわゆる「浦上四番崩れ」と呼ばれる事件で、100人以上が萩や津和野、福山に流配され、のちに信徒全員が南北20藩22か所に移送。その数は3千人以上にものぼったといわれています。
1865年の大浦天主堂での「信徒発見」以来、浦上村山里のキリシタンは公然と信仰を表明していました。
そんなか、本来は僧侶の立ち合いが必要な死者の埋葬を、僧侶の立ち合いなしに行うという事件が発生。その後も自葬した者たちが相次いで捕らえられ、牢内で厳しい拷問受けるなど、弾圧は厳しさを増していきました。
諸外国公使の抗議によって幕府は拷問を取りやめることを約束したものの、禁教政策を受け継いだ明治政府が弾圧の手を緩めることはありませんでした。
この頃、欧米諸国を歴訪していた岩倉具視使節団は、すでに英字新聞によってこの弾圧事件が報道されていた訪問先で強い抗議を受けることになり、ついにキリシタン禁制の高札が撤廃されることになったのです。
国内における制度改革ではなく、欧米諸国の抗議によって実現した弾圧の禁止と信徒たちの釈放。それゆえに本当の意味での信仰の自由を獲得するにはさらに多くの歳月を要したのかもしれません。
(文:ヒラモトヨシノリ、イラスト:ナカムラタエ)