Vol.411
2022年6月20日 公開
6月20日(新暦7月21日)は、1590年に天正遣欧使節の一行が長崎に戻ってきた日。同行したイエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが活版印刷機を伝えた日でもあります。
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ・・・あまり馴染みがないという人もいるでしょうね。
イタリアの名門貴族の家に生まれたヴァリニャーノは、大学で法学を学んだあと司教を務めたことをきっかけにローマで働くようになり、やがてイエズス会に入会。東インド管区の巡察師に抜擢されました。
そして1579年、日本での布教の状況を視察するために来日し、島原半島の口之津に降り立ったのでした。
日本での宣教において彼が重要視したのが、ヨーロッパの習慣にこだわらずに自分たちを日本文化に適応させること。これによって従来の方法を押し通す他の修道会の宣教を阻止しようとしたのです。
また、日本人司祭の育成が必要だと考えたヴァリニャーノは、教育機関の充実を図る一方、天正遣欧使節の派遣を計画。セミナリヨで学ぶ4人の少年とともにローマに渡りました。
日本人にヨーロッパを見聞させること、同時にヨーロッパの人々にも日本を知ってもらうことが派遣の目的だったといわれています。
帰国後に豊臣秀吉に謁見し、日本初の活版印刷機でキリシタン版という書物を印刷するなど重要な役割を果たしたヴァリニャーノは、1603年に日本を去り、その3年後にマカオで生涯の幕を閉じました。
国内に外国人宣教師が不在となった17世紀半ば、日本人指導者を中心に共同体をつくって信仰を続けた潜伏キリシタンたち。
彼らの主体的な行動は、日本文化を重んじたヴァリニャーノの宣教の成果だったのではないか、あらためて彼の人生にふれたとき、そんなことを感じたのでした。
(文:ヒラモトヨシノリ、イラスト:ナカムラタエ)