おらしょ こころ旅

Vol.303

港の系譜

2020年5月18日 公開

長崎のまちは港とともに発展してきたといっても過言ではありません。

 

「鶴の港」と呼ばれたその美しい姿をいにしえの人々はどんな想いで眺めたのでしょうか。

 

1571年、1隻のポルトガル船の入港をきっかけに開かれた長崎。岬の台地には6つのまちがつくられ、迫害から逃れてきた人々でキリシタンのまちが形成されました。

 

島原・天草一揆後は海禁体制が強化され、港に突き出た出島に平戸からオランダ商館が移転。長崎はわが国唯一の西欧に開かれた窓口として重要な役割を果たしました。

 

1858年、アメリカ、オランダなど5か国と修好通商条約を締結して再び港が開かれると、南山手、東山手一帯に外国人居留地がつくられ、外国人たちの祈りの場として大浦天主堂が建設されました。

 

やがて寄港する外国船の増加とともに燃料である石炭の需要が増大したことから炭鉱の開発が盛んに行われるようになりました。

 

一方、長崎製鉄所を起源とする造船業もその後 「東洋一」を誇るほどの活況を呈していったのです。

 

大正末期に長崎・上海航路が就航すると、多くの外国人観光客が訪れるようになり、長崎は異国情緒あふれる国際観光都市としてさらに発展しました。

 

そしてその歴史はしっかりと現代へと受け継がれているのです。

 

そんな長崎港で、先月、停泊中の大型クルーズ船で新型コロナウイルスの感染クラスターが発生したというニュースが飛び込んできました。

 

これを知って言いようのない不安を感じた方も多かったと思います。4月下旬には市民の疑問に答えた動画が公開され、今後市内で感染が広がることはないと発表されました。

 

それでも私たちは自らを守るために今できる対策を進めていかなければなりません。

 

長崎港は、このまちに住む人々の財産。この状況が一日も早く収束し、人々が笑顔で集い憩うことができる日が来ることを願っています。

 

(文:ヒラモトヨシノリ、イラスト:ナカムラタエ)

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