Vol.296
2020年3月30日 公開
1571年の開港とともにキリシタンのまちづくりが始まり、南蛮貿易の拠点として栄えた長崎。その中核を担っていたのは各地からやってきた商人や町民でした。
この頃は才能とチャンスがあれば誰もが出世できた時代。そんななか登場したのが村山等安でした。
もともと彼は伊藤小七郎といい、開港後に長崎にやってきて南蛮菓子屋を営んでいました。
才知にたけ、ポルトガル語にも幾分通じていたことから、豪商に認められて援助を受け、当時茶器として珍重されたルソン(フィリピン)の陶器の取引で財をなしました。
大きな転機となったのが、朝鮮出兵で九州にきていた豊臣秀吉への謁見でした。
秀吉に気に入られた彼は、土地にかかる税である地子銀(じしぎん)を納めるかわりに外町を治めたいと申し出て認められ、外町の初代長崎代官になりました。
彼はキリシタンで洗礼名はアントニオ。秀吉がこれを聞き間違えてトウアンと呼んだことから等安となり、村山の姓も与えられたといわれています。
その後は徳川家康の信任も得て、生糸、金などの貿易で富と権力を手にしていったのですが、大坂夏の陣で等安の息子が大坂城に弾薬を運び込んだなどと嫌疑をかけられて失脚。江戸で磔(はりつけ)にされ一族も死罪となったそうです。
このとき等安を幕府に訴えたのが、次に長崎代官となった末次平蔵政直でした。
平蔵も貿易の斡旋、高利貸、国産物の取引などで巨額の富を築き、長期にわたって長崎の政治と経済を支配していたのですが、密貿易が発覚して断絶。財産は没収され、4代目は隠岐(島根県)に流罪となりました。
古くから多くの人々の夢だった立身出世。しかし最近の調査では、これを望む若者の数が大幅に減少しているようです。
敵が増え、いつ足をすくわれるかもしれないことを考えると、争うことなく、平穏な日々を送りたいと願うのもわかるような気がしますね。
(文:ヒラモトヨシノリ、イラスト:ナカムラタエ)