Vol.217
2018年9月10日 公開
豊臣秀吉の禁教令を引き継いでキリスト教を禁止した徳川幕府は、多くの司祭や修道士などを捕らえて大村の鈴田牢、長崎のクルス牢(桜町牢)に監禁しました。
鈴田牢は、鳥かごのように木で囲まれたわずか6畳分の狭さで、多いときには32人が収容され、身動きのできない状態だったといわれています。
やがて全員の処刑命令がくだされ、1622年9月10日、長崎の西坂で56人のキリシタンが処刑されました。
これが日本のキリシタン迫害の歴史の中で最も多くの信徒が同時に処刑された「元和(げんな)の大殉教」です。
26人のキリシタンが西坂で殉教してから25年後のことでした。
この迫害事件では、宣教師などを中心に25人が火あぶりの刑となり、宣教師をかくまった宿主などキリシタン31人が斬首されたそうです。
そしてこれ以降、長崎、大村、島原、有馬などで多くのキリシタンが殉教していく中、信徒たちの怒りが頂点に達するような出来事が起きたのです。それが島原・天草一揆でした。
徳川幕府がキリスト教にどれほど脅威を感じていたのか、それは迫害事件の多さとその残虐さから容易に想像できます。
それではこのときキリスト教を禁止していなかったら、今の日本はどんなふうになっていたのでしょうか。
約400年前の今日、西坂で起きた悲惨な事件に想いをはせながら、そんなことを考えてしまうのです。
(文:ヒラモトヨシノリ、イラスト:ナカムラタエ)