Vol.20
2014年11月10日 公開
教会跡の石碑めぐりをしながら、ちょっと不思議に思ったことがありました。長崎に初めてトードス・オス・サントス教会(長崎市夫婦川町)が誕生して以来、次々に建てられた長崎の教会は、そのほとんどが1614年の徳川幕府の禁教令によって取り壊されました。
しかし、そこからさかのぼること約20年、豊臣秀吉がすでに教会破壊を命じていたのです。それにも関わらず、なぜ教会は残ったのでしょうか。いや、むしろ、そのあとのほうが多くの教会が建てられたという事実。どうしてなのでしょう? 腑に落ちませんねー。
文献によると、1587年、伴天連追放令を出した秀吉は、イエズス会領の長崎、茂木、浦上を取り上げ、1592年には教会を破壊していくのですが、南蛮貿易を保護したことから禁教は徹底されなかったそうです。南蛮貿易で富を得るため、キリスト教の布教についてはある程度目をつぶらなければならなかったということなのでしょうか。
そして1598年、秀吉が亡くなり、1603年に江戸幕府が誕生するわけですが、家康も幕藩体制が確立するまでは南蛮貿易とキリスト教を天秤にかけながら様子をみていたのかもしれません。しかし1614年、暴挙に出ます。その年の11月3日から15日のあいだに長崎の教会のほとんどを破壊してしまったのです。
“天下人である信長、秀吉、家康が鳴かないホトトギスをどうするのか”という、詠み人知らずの有名な川柳があります。信長はさておき、秀吉の「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」は彼の積極性を、家康の「鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス」はその忍耐強さを表しているようですが、禁教令でとった彼らの行動からは「意外と消極的な秀吉さん」と「ときには短気な家康さん」という違った側面がみえてきそうです。皆さんはどう思いますか。
(文:ヒラモトヨシノリ、イラスト:ナカムラタエ)