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長崎

大浦天主堂

・這是1864年建造的教堂,由傅勒神父與珀蒂讓神父所設計。
・1864年一封寄給橫濱吉拉德神父的書信可知,兩位神父是自己繪製這座新教堂的示意圖,並指導日本人木工建造。
・經過1875年與1879年的增建和改建,教堂從原竣工當時的三廊式,變成現在五廊式的模樣。
・負責施工的是天草出身的木工小山秀之進。
・中殿與側廊的天花板是8等分的肋狀拱頂,以灰泥做最後修飾的天花板基底,是使用日本建築的傳統工法「小舞壁」。
・此為19世紀日本開國後,於日本各地的開港處由西方人指導建造的初期教堂具有代表性的一例,也成為長崎地方開始建造教堂的起點,是一座非常重要的教會建築。

相關人名、用語(讀法和說明隨滑鼠游標一起顯示)

天草四郎

[あまくさしろう] 本名は益田四郎。わずか16歳の若さで、島原・天草一揆の一揆軍(農民)のリーダーとなって戦ったとされている。

崩れ

[くずれ] 禁教下、厳しい取締や密告によって、キリシタンの信仰組織(集落)が壊れる(崩れる)こと。大規模なキリシタン検挙事件を指し、大村の郡崩れ、浦上崩れ(1〜4番)、五島崩れなどがある。

五廊式

[ごろうしき] 教会建築では、入口から祭壇に向かっていくつかの廊が伸びている。廊のうち中央に設けられる最も天井が高い部分は「身廊」と呼ばれ、身廊の両脇に設けられる天井の低い廊が「側廊」と呼ばれる。身廊の両側にそれぞれ1つずつ側廊がある場合は「三廊式」、2つずつ側廊がある場合は「五廊式」。

ジラール(プリュダンス・セラファン・バルテレミー・ジラール)

[じらーる] パリ外国宣教会の宣教師。1855年に琉球に入り、1857年に日本代牧に任命。いったん琉球から離れ、1859年ごろに来日し、1862年に横浜天主堂を創建した。

三廊式

[さんろうしき] 教会建築では、入口から祭壇に向かっていくつかの廊が伸びている。廊のうち中央に設けられる最も天井が高い部分は「身廊」と呼ばれ、身廊の両脇に設けられる天井の低い廊が「側廊」と呼ばれる。身廊の両側にそれぞれ1つずつ側廊がある場合は「三廊式」、2つずつ側廊がある場合は「五廊式」。

漆喰

[しっくい] 瓦や石材の接着や目地の充填、壁の上塗りなどに使われる建材で、大浦天主堂や出津教会堂などの表面に塗られている。

信徒発見

[しんとはっけん] まだ禁教が明けていない1865年、長崎の外国人居留地に創建された大浦天主堂において、浦上の潜伏キリシタン数人が約250年ぶりに神父に信仰を告白したできごと。

身廊

[しんろう] 教会の入口から主祭壇に向かう中央通路部分を指す。

潜伏キリシタン

[せんぷくきりしたん] 禁教時代に、表向き仏教徒として生活し、密かに信仰を継承した信徒たちのこと。

側廊

[そくろう] 教会建築において,身廊の両側に平行に走る部分。

竹小舞

[たけこまい] 細く裂いた竹で組んだ土壁の下地工法で、大浦天主堂の壁の下地に用いられている。柱に小さな穴をあけ、割竹を横に渡し、縦に竹を交差するように組む技法で、土壁職人が少なくなった今では大変貴重なものである。

プティジャン(ベルナール・プティジャン)

[ぷてぃじゃん] パリ外国宣教会の宣教師。1860年に琉球、1862年に横浜に上陸。1863年8月に長崎に入り、大浦天主堂の建設に着手して、1865年2月に献堂式を行った。直後の「信徒発見」で、潜伏キリシタンとの邂逅を果たした。

フューレ(ルイ・テオドール・フューレ)

[ふゅーれ] パリ外国宣教会の宣教師。1855年に入り、1863年に長崎上陸。大浦天主堂の創建に尽力し、1864年にフランスへ帰国。1866年再来日し、翌年に横須賀製鉄所司祭となる。

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