- 沖田畷の合戦は、天正12(1584)年3月24日朝から佐賀の龍造寺隆信が2万5千騎の大軍を率いて、有馬晴信・島津義久軍と沖田畷で激突した戦い。
- 龍造寺隆信はキリスト教布教に否定的であり、ルイス・フロイスが著した『日本史』においても宣教師たちから敵視されていた。
- 龍造寺隆信は合戦の前から各方面で有馬勢・島津勢との間で有明海の制海権をめぐって争っており、島原半島への侵略もその一環であった。
- 当時の沖田畷は、胸までつかるほどの湿地帯で、その中を細い一本道が通っているだけだった。地理に不案内な上、大軍を誇りに油断していたのか、龍造寺軍は苦戦を強いられ、その日のうちに大将の龍造寺隆信が島津軍の川上左京亮忠堅に討たれた。
- 合戦後、有馬晴信は長崎の浦上村と雲仙とイエズス会に寄進しようとしたが、雲仙の寄進については島津家の反対により断念し、浦上村のみ寄進することとなった。これ以降、浦上を中心にキリスト教の布教は盛んとなっていく。
- 合戦の戦後処理のため島原半島へ上陸した島津家の家臣・上井覚兼は、雲仙をはじめとする島原半島の荒廃ぶりを『上井覚兼日記』に記しており、戦国時代における島原半島の状況を知る貴重な記録を残している。