2017年7月19日
島原・天草一揆を日表で紹介。
富岡城は、関ヶ原の戦いの戦功により天草の領地を与えられた寺沢広高によって、1602(慶長7)年頃から天草支配の本拠として築かれた。
島原・天草一揆で討ち死にしたキリシタン一揆軍の首級1万余を三分(長崎・有馬・天草)し、埋葬した内のひとつ。
アダム荒川は、1613(慶長18)年の禁教令により追放された、志岐駐在の宣教師ガルシア・ガルセスに代わって、教会と信者の世話をしていた。
1637(寛永14)年におきた、島原・天草一揆において、天草四郎を大将とするキリシタン一揆軍1万人余りは、2回にわたり富岡城攻撃に及んだが落城を果たせず、島原の一揆軍と合流するため、松原川河口から乗船したといわれている。
スペインのヴァレンシアに生まれたトルレスは、1538年メキシコに渡り、フィリピンを経てインドに至り、そこでザビエルに会う。
1569年10月3日付、ミゲル・バズの報告書簡によれば、「(前略)当地より8レグワまたは10レグワの地にパードレあり。告白のため多数同所に赴きしは予の恥ぢたるところなり。この地の領主はゼウスのことを知らず、また聴きたることなきがゆえに、キリシタンとならざれども、常に大なる好意を示し、2つの村をキリシタンとなす許可を与へたり。その一つは都呂々Tororと称し、デウスの御慈悲によりほとんど皆キリシタンとなれり。(後略)」とあり、都呂々村はほぼ全村民がキリシタンとなった。