2014年10月14日
1609年、ドミニコ会のフランシスコ・デ・モラーレス神父によって建てられた教会堂があった。
長崎で最初に建てられた教会堂の跡。「トードス・オス・サントス」はポルトガル語で「諸聖人」の意味である。
外海キリシタンの信仰を集め、守り伝えられてきたキリシタンに関する伝承地である。
1571年、ポルトガル船が長崎に入港して以来、貿易を行っていたポルトガル人は長崎の市中に滞在していた。
1879年、外海(そとめ)地方に赴任したド・ロ神父は、地域住民の福祉と生活向上のため、さまざまな福祉活動・慈善事業に尽力した。
江戸時代、禁教令による厳しい弾圧の中、外海地方の多くのキリシタンは潜伏して信仰を維持し続けた。
1614年に禁教令が出されて以降、キリシタンへの取り締まりはいっそう厳しさを増したが、外海(そとめ)地方の多くのキリシタン信者たちは潜伏して信仰を守り続けた。
1873年、キリシタン弾圧の禁制がとかれ、自由を得た浦上の信徒たちによって建設が計画された。
幕府の厳しい取り締まりと、仏教による統制の中で、潜伏キリシタンは墓石に仏教式石塔を用い、戒(法)名を刻んだ。
ド・ロ神父が造成した出津教会信徒の共同墓地。
伊王島におけるキリシタンの歴史は、江戸時代の禁教政策の中を生き抜いたキリシタンたちが天草などの各地から海を渡ってきたのがそのはじまりといわれている。