1881年に長崎に上陸したマタラ神父は、以後、黒島・平戸地区で40年にわたって宣教活動を行う。解禁直後は、各地の教会に常任司祭がいなかったため、紐差ひもさしを中心に、黒島、田平、生月島いきつきじま馬渡島まわたりじまなど広範囲に巡回していたが、当時は海陸共に交通手段がなかったため、御用船またはカコー船と呼ばれる小さな専用の船が使われていた。この船は、全長9mあまりの帆船で、追い風の時は帆で走り、風がない日は櫓漕ぎろこぎで走っていた。このような、神父を乗せた船が港を巡回する風景は、県北地区に限らず長崎県内の各地で見られ、晴れてキリスト教の信仰が許された象徴的な風景の一つであった。

御用船を走らせる水夫は経験者が当番制で担当していたが、各自が手飯・手煙草の無報酬で布教活動を手伝っていたと伝えられている。大正時代の中期頃から、各教会に司祭が赴任したので巡回の必要がなくなり、御用船も見られなくなった。紐差教会史料保存室には、当時の御用船の模型が展示されている。