黒島天主堂を訪れた誰もが、人口500人の小さな島にどうしてこんな大きな教会堂があるのかという疑問を持つだろうが、答えは簡単である。明治時代末期には、この黒島に2,000人もの信徒がいたからである。この教会堂を建てるにあたり、マルマン神父が呼び寄せた大工棟梁は長崎の前山佐吉。そこに五島列島宇久島出身の大工、柄本庄市らが加わった。柄本は仏教徒だったが、黒島の民家の改修に関わったとき、人々の信仰生活に感動し、そのまま島に住み着いた人物だった。柄本は2年という長い工期の中で、さらに祈りの世界に引き込まれていく。黒島天主堂の献堂式の日、柄本は黒島一といわれた美しい女性を見初め、しばらくして二人は結ばれた。柄本はその後、平戸の宝亀教会堂や旧紐差教会堂(現在、佐賀県唐津市の馬渡島教会堂に移築)などの建築に携わり、後世に名を残している。