日本初のキリシタン大名・大村純忠すみただの五女として生まれ、自らもキリスト教を篤く信仰していたメンシア。1586年、父純忠はそれまで南蛮貿易を巡り敵対していた松浦まつら氏と和睦するため、松浦鎮信しげのぶの嫡男久信ひさのぶにメンシアを嫁がせた。いわゆる政略結婚である。

しかし、松浦家は大のキリスト教嫌い。純忠は娘の信仰を守らせることを条件に嫁がせたのだが、実際は婚姻後すぐに久信の父や祖父らは彼女に信仰をてさせようとした。さらに1587年7月、豊臣秀吉による宣教師追放令が発布されると、メンシアへの改宗圧力は日増しに強くなっていった。

信仰心の篤いメンシアは棄教を断固として拒み、夫に離縁の道を選ぶと申し出た。しかし、夫の久信はメンシアの信仰に理解を示し、屋敷の中に小さな聖堂を作ってそこでひそかに礼拝するように促したという。

久信が37歳で死去した後、メンシアは66歳のときに幕府からの命令で江戸の広徳寺に監禁された。亡くなったあとは平戸に戻され、久信とともに松浦家の墓に眠っている。