外海地区に残るキリシタン巡礼地の中でも難所にあるのが、金鍔次兵衛きんつばじひょうえ=トマス・デ・サン・アウグスチノ神父がかくれていたとされる「次兵衛岩洞窟どうくつ」。次兵衛は1602年に大村のキリシタンの家に生まれ、有馬のセミナリヨで学んだ。マカオに渡って勉学を続けたあと帰国し伝道士となって働くが、神父を志して再度出国。フィリピンでアウグスチノ修道会に入会して司祭(神父)となった。そして30歳のとき、迫害が厳しさを増す長崎で活動を始める。

当時、長崎では多くの殉教者が出ていた。次兵衛神父は大胆にも昼間は奉行の馬丁(馬の世話をする人)になりすまして牢獄ろうごくの神父らに接近し、夜になると密かに民家をたずね教えを説いた。そんな次兵衛神父の行動に気づいた役人は彼を捕らえようとしたが、神父はいち早く身をくらました。その姿は神出鬼没で、まるで忍者のようだったと伝えられている。あるときは武士に変装し、金鍔の刀を差していたため、その名がついたという。

しかし1636年、外海山中の岩穴に潜んでいるところを密告によって捕らえられ、1637年に長崎で穴釣りの刑で殉教。2008年、福者に列せられた。