ローマから帰国後は、それぞれ違う半生を歩んだ天正遣欧少年使節の4人。その中でも千々石ミゲルはただ一人、キリスト教を棄て仏教徒になった。棄教後は名前を清左衛門と称し大村藩主に仕えるが、冷遇され長くは続かなかった。愛妻との間に4人の子供を授かったといわれているが、未だに棄教の理由が何だったのか、晩年をどう過ごしたのか、詳細は謎に包まれている。
そんな中で2003年、諫早市多良見町で千々石ミゲルの墓と推測される石碑が発見された。発見者は石造物研究家の大石一久氏。その石は、近隣住民から千々石ミゲルの四男の「玄蕃の墓」として守られていたが、「玄蕃」の名前が墓石の裏側に彫られていること、表には2人の戒名と没年月日が刻まれ、それが夫婦と思われることから千々石ミゲルの墓ではないかと発表された。
石碑は今後も調査が進められる予定。果たして謎解明につながる歴史的発見があるのか、今後の進展に関心が寄せられている。