浦上教会の鐘が『長崎の鐘』と称されるようになったのは戦後のことである。

もともと旧教会にも二つの塔(聖楼ドーム)があり、右側の塔に小さな鐘、左の塔に大きな鐘があった。鐘はともにフランス製で、朝夕の時を告げていた。しかし、原爆により双塔は崩壊して落下(左の塔は川縁に落ちたまま被爆遺構としてその場に保存)、中にあった鐘も一瞬にして吹き飛ばされた。

終戦直後、当時浦上信者の救済にあたっていた永井隆ながいたかし博士は、瓦礫がれきの中から二つの鐘を見つけた。小さい鐘は割れていたが、大きい鐘は無事であった。博士は、原爆で打ちひしがれた信者を奮い立たせようと、この鐘を鳴らすことを決意。さっそく丸太を組み、鐘をチェーンでつり下げ、終戦から4ヶ月後のクリスマスの日に戦後初めて鐘を鳴らした。博士はこのとき、「新しき朝の光のさしそむる 荒野に響け長崎の鐘」と詠んだ。これが『長崎の鐘』の由来である。その後、永井隆は原爆体験を元にした随筆『長崎の鐘』を出版。同年、その作品をモチーフにした曲を藤山一郎ふじやまいちろうが格調高く歌いあげ大ヒット。戦後の長崎のみならず日本人の心を勇気づけた。

現在もこの鐘は双塔の一つにつるされ、一日に三度、浦上の丘に鐘の音を響かせている。