久賀島から「五島崩れ」は始まった。「崩れ」とは、潜伏時代に信仰を語り継いできた組織が大規模に摘発されることである。日本は明治時代を迎え、開国したにもかかわらず禁教が解かれないなか、1865年の大浦天主堂での「信徒発見」をきっかけに、五島でもキリシタンたちが次々と信仰を表明した。明治政府は組織を一掃するため、弾圧を始めた。久賀島の牢屋の窄では静かな湾に面したわずか6坪の牢屋に約200人のキリシタンが収容された。この悲劇がプティジャン神父によってヨーロッパに伝えられると、日本は各国から非難を受けるようになり、やがて明治政府はキリスト教を認めることとなった。
この迫害で命を落とした43人の名前が墓碑に記されている。多くは幼い子どもや老人たちである。みな純粋に教えにしたがい、抵抗することなく死を受け入れた。