大浦天主堂の建築を請負ったのは天草出身の小山秀之進こやまひでのしんで、彼は天草から多くの石工や大工、土方を呼び寄せたといわれているが、その後の増改築を含め、長崎の大工も携わっている。当時浦上で一番の大工と言われた溝口市蔵みぞぐちいちぞう伊王島いおうじまの大工棟梁・大渡伊勢吉おおわたりいせきち、外海の大工・川原粂吉かわはらくめきちなどがそうだ。

当時はまだキリシタンに対して周囲の目は厳しかった時代。教会堂建設に関わるのは勇気が必要だったと思われる。その中でも、大渡伊勢吉は溝口や川原と違い仏教徒であったが、禁教下で信仰を守り続けたキリシタンのためにと、大浦天主堂建設後も地元・伊王島の教会堂建設に携わった。1879年にフランス人宣教師ブレル神父の指導のもとで旧大明寺だいみょうじ教会(現在、愛知県の博物館明治村に移築)、1890年にはマルマン神父の指導で馬込まごめ教会(台風で倒壊)を完成させている。

現在、伊王島灯台記念館として開放されている洋館、伊王島灯台旧吏員退息所(1877築)も伊勢吉によるもので、列柱7本を配したベランダや各部屋に置かれたマントルピース、間取りなど、明治初期の建築技術を語る上で貴重な文化遺産となっている。館内には、伊王島の歴史を語る上では欠かせない人物として伊勢吉の写真、経歴なども紹介されている。