禁教時代の幕府の取調べは厳しく、その矛先は墓石にまでおよんだ。

浦上は、ほとんどの村人がキリシタンで、表面上では浄土宗聖徳寺の檀家だんかとして仏教徒を装っていた。ところが1790年、寺に石仏をつくる際の喜捨金(寄付)を浦上の村人が拒否したことを発端に浦上一番崩れ(キリシタン検挙事件)が起こった。これにより、浦上の4つの墓地(経の峰きょうのみね赤城あかぎ、こうらんば、阿蘇あそ)の墓石に関する取調べも数度にわたって行われた。禁教以前のキリシタン墓石は、西洋式の墓碑で十字紋様や洗礼名などのキリシタン的な特徴を表面に出していたが、禁教時代に入るとキリシタンとわかる表現はやめ、行年と俗名、没年月日を刻むだけにした。しかし、仏教式の墓とは異なっていたため、取調べの結果、キリシタンと疑われる墓石はすべて破壊されてしまった。

現在、経の峰共同墓地に残っているキリシタン墓碑は、そのような迫害を奇跡的にまぬがれたものである。それ以降、信者たちは文字を刻んだ石塔を建てず、自然石を置くだけの簡素な墓とした。山などから運んだ自然石は野石とも呼ばれ、浦上以外にも外海や垣内かきうちなど古いキリシタン集落の墓地に残っている。