江戸時代中期、大村藩の集団移住政策で、主に外海から約3,000人が移り住んできた。そのほとんどがキリシタンだった。第1陣が手漕ぎの船で奥浦の六方の浜に上陸。それ以来、キリシタンたちは仏教徒を装い、奥浦地区でひっそりとキリスト教の信仰を守ってきた。
明治時代に入ってキリスト教の信仰が許されるようになると、フランス人宣教師のフレノー神父がやってきて、堂崎教会の浜辺で五島初のクリスマスミサを捧げたという。
專欄
五島列島 信仰的姿態
江戸時代中期、大村藩の集団移住政策で、主に外海から約3,000人が移り住んできた。そのほとんどがキリシタンだった。第1陣が手漕ぎの船で奥浦の六方の浜に上陸。それ以来、キリシタンたちは仏教徒を装い、奥浦地区でひっそりとキリスト教の信仰を守ってきた。
明治時代に入ってキリスト教の信仰が許されるようになると、フランス人宣教師のフレノー神父がやってきて、堂崎教会の浜辺で五島初のクリスマスミサを捧げたという。
(文章:大浦由美子)
洋上遙かからその姿を目にすることができる山は、
航路が伝えた様々な宗教の拠り所となってきた。
16世紀の集落がそのまま残る貴重なエリア。
戦国時代から変わらぬ環境と暮らし、そして祈り・・・。
棚田の中にたたずむ小高い山は、キリシタン信仰が守られてきた聖地。
キリシタンの殉教地であり、聖地でもある無人島。
信徒たちは聖水をくむために、荒波を越えて島へと渡る。
過疎化が進む奈留島。
祈りの灯をともし続ける信徒たちに出会った。
キリストにならって、自ら尊い犠牲になることを受け入れたキリシタンたちがいた。
今、その意味を考える。
「潜伏」から「復活」まで、﨑津集落における信仰の歴史を物語る貴重な史料館。
年末恒例の「幸木」は、天草で行われてきた正月飾り。
今富の幸木は、かくれキリシタンの信仰を伝えている。
ふと見つけた小さなお社で、慈愛に満ちた石像に出会う。
埋もれてしまった今富の歴史を、これからもっと調査していきたい。
信徒として洗礼を受けていた平戸の当主が、
領土の信徒を徹底的に弾圧した。
貿易と布教がセットに。
それがキリスト教信徒が増えた理由
変わっていった信仰ではなく、
布教当時のあり方をそのまま継承したのが本当の姿。
信頼していたのにだまされた…。
潜伏時代に起こった悲しい物語。
多くの儀式、多くの習わし。
家族の協力なくしては続けられない信仰。
今もなお大切に残る根獅子のかくれキリシタンスポットをガイドが解説。
江戸時代、壱岐から移住した小田家は鯨組を組織し、大いに栄えた。
その屋敷は現在資料館となっている。
キリシタンを祀る神社は日本でも珍しい。
枯松神社では年に一度、キリスト教と仏教、かくれキリシタンが、共に祈りを捧げる。
シスターが鳴らす黒島天主堂の鐘
透き通ったその音色の秘密とは・・・
キリシタンの姫が嫁いだ先は
キリスト教嫌いの松浦家。そのとき夫は・・・
昭和初期の堂崎天主堂の公式初聖体式が
報道写真家によって写真におさめられていた
キリシタンの復活期をたどる古い御水帳。大曾教会の一番古い御水帳は、外海で見ることができる。
天草の今富集落では明治になってからもカトリックに復帰せず、先祖から伝わる儀式を行った
外海の潜伏キリシタンが大切にしたというバスチャンの日繰り。一体、何が書かれているのか?
禁教期、3つの組に分かれて信仰を守り通した﨑津集落。その時代の資料は﨑津資料館「みなと屋」で見ることができる
春日集落のかくれキリシタン講で継承されていた「お札」の行事。当たり札は「おふくろ様」!?
﨑津集落の風景や文化を語るとき、必ず登場する「カケ」と「トウヤ」って、何のこと?
日本初のキリシタン大名として知られる大村純忠。戦に明け暮れる中で、キリスト教に心動かされていった!?