出島でじまが完成したのは1636年。幕府の禁教政策の一環で、長崎の市中に分散宿泊していたポルトガル人を集住させるために、長崎の有力町人に命じて造らせた人工の島である。広さは約4000坪、長崎町人が出島の住人から賃貸料を徴収するというシステムであった。しかし、島原・天草一揆などでキリスト教により一層警戒を強めた幕府は、カトリック色の強いポルトガル人を出島から追放。長崎町人の強い希望もあり、幕府は空き家になった出島に平戸のオランダ商館を移した。オランダは貿易のみが目的で布教活動にはあまり関心がなく、島原・天草一揆では一揆軍を砲撃して幕府に取り入った。

とはいえ、出島に住んだオランダ人もクリスマスを祝いたかったのであろう。江戸時代、冬至は陰暦(旧暦)では11月中だが、太陽暦では12月20日過ぎで、オランダ本国ではちょうどクリスマスの時期にあたる。そこで出島のオランダ人は冬至の祝いに見せかけてキリスト降誕祭を祝ったといわれている。現在、出島和蘭(オランダ)商館跡に復元されたカピタン部屋には、「阿蘭陀(オランダ)冬至光景」としてその料理などを再現した部屋がある。