日野江城の二ノ丸で発見された階段遺構には、仏教の宝篋印塔や五輪の塔の一部が使われていた。その中には金字が施されて間もない塔もある。意図的に踏み石に使ったのかどうかはわからない。ただ当時のキリシタン大名の領地では寺社仏閣が破壊され、有馬領内でも40以上が壊されたという記録がある。

当時の為政者である豊臣秀吉もまた「パードレ(宣教師)はなぜ神仏の寺社を壊すのか。僧たちと融和しないのか」と宣教師コレリョを問いつめている。直後に「伴天連追放令」を出し、宣教師たちの国外退去を命じた。

秀吉の側近として知られる小西行長や高山右近らはキリシタン大名である。秀吉は島津氏を降伏させ、天下統一の次のステップとしてこうした領主たちをうまく統制しなければならなかった。追放令を出したもののポルトガル貿易を続け、布教を黙認した。しかし10年後、スペイン船の漂着に端を発し、宣教師ら26人が処刑される事件が起きるのである。