250年にもおよぶ苦難の禁教時代、浦上や外海のキリシタンたちは、日本人伝道士バスチャンの伝説を信じて信仰を守り続けた。バスチャンはジワンという神父の弟子で、ジワン神父がいなくなってからも、人目を忍んで外海地方で伝道を続けた。その際、キリシタンが信仰を継承していくために欠かせないキリシタン暦(日繰りひぐり)を伝えたのである。さらに、バスチャンはキリシタンに希望を与える4つの予言を残した。それは(1)皆を7代までわが子とする、(2)その後はコンヘソーロ(告白を聞いてくれる神父)が大きな黒船でやってきて毎日でもコンピサン(告白)ができるようになる、(3)どこででも大声でキリシタンの歌を歌って歩けるようになる、(4)道で異教徒とすれ違うときには相手が道を譲るようになる、という内容のものであった。潜伏していたキリシタンたちはこの予言を信じ、いつの日か大声で聖歌を歌える日を夢見て、信仰を守り続けたのである。およそ7代後にあたる約250年後に日本に黒船が来航し、再布教のために来日した神父と長崎の信徒が出会ったこと(信徒発見)は、予言通りとも言える。

バスチャンは山中で捕らえられ、長崎西坂で殉教した。現在の「バスチャン屋敷跡」は、バスチャンが隠れていたとされる牧野の山中に佇む。