大江おおえ教会を建てたガルニエ神父は、1860年南フランスの生まれ。パリ外国宣教会の司祭となり、1885年に来日。一年間は京都で日本語を学び、翌年から長崎港外の伊王島いおうじまや上五島で司祭を務め、1892年32歳のときに天草に着任し、49年間大江教会の主任司祭を務めた(最初の35年は﨑津さきつ教会と兼任)。神父は「贅沢したら人は救えない」が口癖で、フランスの家族からの援助金は蓄えに回し、当時貧しかった天草の信徒たちと同じものを常食とし、継ぎはぎの司祭服をまとうなど、生活費を切り詰めて宣教活動に励んだ。そして着任から約40年後、すべての私財を投じて現在の大江教会を信者とともに建設した。

ガルニエ神父は、フェリエ神父が建てた孤児院を引き継ぎ多くの恵まれない子どもたちを救ったほか、天草弁での説教も特徴だった。病人を見舞うときは大きな声で患者の名前を呼び、「どうか、よかか」と話しかけていたという。

自らの臨終の際は「墓石に金をかけるな。墓をつくる金は病人や困った人に与えてくれ」という言葉を残して亡くなったという。しかし、信徒たちは、教会の西側にりっぱなルドヴィコガルニエ塔を造った。墓石の十字架には「汝等なんじらゆきて万民に教えよ」と聖書の一文が刻まれている。