Balades
Centre de la préfecture, Seihi
2024.7.3
西海市は元々大村領だった地域で、大村純忠が開いた南蛮貿易港、横瀬浦や中浦ジュリアンのふるさと、中浦など、キリシタンの歴史が各地に息づいています。今回、田植えの美しい時期に訪れた西彼町のキリシタン墓碑も、今から400年以上前のものと思われる古いものです。
Présentation des circuits前回訪ねた平原キリシタン墓碑から車で約15分、西海市西彼町の亀浦郷、波静かな大村湾を望む小干浦の岬の突端に、一つのキリシタン殉教碑が立てられています。1624年、この地で殉教した四五郎左衛門親子の遺骨が眠っていて、日本で発見された唯一の殉教者の遺骨とさ...
時津港沖に浮かぶ鷹島は、キリスト教が禁止されていた1617年にナワレトとエルナンドの両神父と伝道師が処刑された地。今回は、その鷹島を眺めた後、そのような厳しい弾圧の中、密かに琴海の寺に身を寄せ、信徒たちを守ったといわれる大村純忠の娘、伊奈ゆかりの地を...
古くは時津街道で賑わった地域であり、日本二十六聖人が京都から処刑地である西坂までを目指す途中、東彼杵から船で大村湾を渡り、時津港に上陸しました。時津港には二十六聖人が上陸したことを示す記念碑が立てられていますが、他にも時津にはキリシタンの歴史の足...
国内にあるキリシタン墓碑の中でも、和洋折衷の碑銘がある川棚町のキリシタン墓碑はとても珍しく、美しいといわれています。今回は、この美しいキリシタン墓碑を見学後、九州のマッターホルンといわれる虚空蔵山の山並みや大村湾を望む大崎半島等、川棚町の美しい景...
東彼杵郡に唯一存在するカトリックの教会が川棚教会。1950年、オーストラリア人フリン神父によって教会が始まり、現教会堂は1966年に建てられました。今回はコスモスなどの秋の草花が美しい日向(ひなた)の棚田を散策後、美しいマリア像と日本二十六聖人の最年少、...
かつて大村領だった波佐見。1600年代はキリスト教が栄え、原マルチノのような偉大な司祭も生み出しています。禁教期以降、キリスト教の信者はいなくなり、現在も教会などの施設はありませんが、野々川集落の墓地に残るキリシタン墓碑の存在に、はるか昔のキリシタン...
天正遣欧少年使節の一人、原マルチノは波佐見の出身と伝えられ、波佐見町総合文化会館(ウェイブホール)の敷地内にりっぱな銅像が建てられ、その功績が讃えられています。今回は改めて、原マルチノの銅像を訪ねた後、収穫後ののんびりした鬼木の棚田に足をのばして...
波佐見町は、安土桃山時代、日本初のキリシタン大名、大村純忠が領する波佐見村として大村領となり、キリスト教が広まりました。江戸時代からは焼き物の産地として栄え、今もたくさんの窯元が魅力ある商品を作り出しています。今回は波佐見の焼き物の里を巡りながら...
日本初のキリシタン大名、大村純忠の本拠地であった大村市。今回訪れた帯取殉教地は大村で初めてキリシタンが殉教した地として知られ、最後に立ち寄った宝生寺跡は、純忠が領内の寺社を破壊した時に宝生寺は残して司祭館とし、脇に大きな教会堂を建立した場所で、純...
キリシタン大名、大村純忠の居城のあった大村は、今も市内各地にキリシタンゆかりのスポットが存在しています。今回訪ねた今富のキリシタン墓碑は、元々「慶長十九年」(1614年)に建てられたものですが、キリシタン禁教時代に入り取り締まりが厳しくなったため、墓...
千々石ミゲルの墓からのどかな県道を通って、大村市の鈴田牢跡をめざしました。鈴田牢は、1617年7月から1622年9月までの5年間、長崎奉行所に捕えられた宣教師や信者35人が閉じ込められた場所で、非常に狭い鳥かごのような牢屋だったと伝えられています。
大村湾の南部沿岸に位置する諫早市多良見町は、全国的にも知られる「伊木力みかん」の産地。一帯の山々にはみかんの段々畑が広がり、今の季節は穫れたてのみかんが直売所で販売されています。みかんの香りが漂う伊木力地区に、天正遣欧少年使節の一人で数奇な人生を...
前回の大島から、明治時代に造られた石原岳堡塁へ立ち寄って、横瀬浦公園へ。全く雰囲気の違う2つの公園ですが、どちらもそれぞれに歴史があり、散策しながら心に感じるものがある公園です。特に、横瀬浦公園一帯は今回紹介した以外にもキリシタンゆかりのスポットが...
西彼杵半島から橋でつながっている大島を抜けると、崎戸島に入ります。崎戸も風光明媚な島で見所がたくさん。また、大島のもう一つの教会、太田尾教会は現在の中村大司教を輩出した教会で、今も熱心な信徒さんによって信仰が守られています。美しい教会堂も見る価値...
西彼杵半島と橋でつながっている大島は、かつて炭鉱で栄えた島。炭鉱に働きに来る人たちの中にはカトリックの人たちも多く、昔からあった太田尾教会の巡回協会として約60年前に建てられたのが間瀬(ませ)教会堂。公共施設や商店街などがある賑やかな場所にあります。
16世紀に天正遣欧少年使節の一員としてローマに渡った中浦ジュリアン。西洋の文化を学んで帰国した後は、禁教期にも関わらず宣教活動を続けました。最後は捕らえられ西坂で殉教しますが、ジュリアンの偉大な功績は今も語り継がれています。今回はそんなジュリアン...
今回は、世界遺産巡礼の道「キリシタン大名と少年使節の道」の10番目のルート、諫早市の中心部から郊外の唐比まで歩く、約13.5キロのコースです。見所は諫早氏の歴史に触れる市内中心部ですが、のどかな田園風景を眺めながら歩く唐比までの道のりもアップダウンが少...
今回は、巡礼路25「大村城下を通り、峠の古道を歩く」の後半をご紹介。かつて多くの旅人が歩き、異国の文化を運んだ長崎街道を満喫できるコースです。鈴田峠は日本歴史の道100選にも選ばれている風情ある散策路。大村市郊外の岩松あたりから昔ながらの風景が広がり、...
今年も引き続き世界遺産巡礼のルートを参考に、周辺のスポットなども楽しみながら散策します。今回は「キリシタン大名と少年使節の道」をテーマに、巡礼路25「大村城下を通り、峠の古道を歩く」の前半をご紹介。大村駅前を出発して、風情ある城下町通りを歩きます。
今回は巡礼路24「長崎街道沿いのキリシタンの歴史をたどりながら歩く」コース。海のそばのレトロな駅舎が人気の千綿駅をスタートし、のどかな大村湾を眺めながらゴールの大村駅をめざします。長崎街道松原宿には風情ある街並が残っているほか、日本初のキリシタン大...
今回は巡礼路23「琴の海を眺めながら、長崎街道の宿場を歩く」をぶらり。川棚駅前をスタートし、美しい大村湾を眺めながらゴールの千綿駅をめざす約12キロのコースで、アップダウンが無く、比較的楽に歩けます。長崎街道の彼杵宿がある東彼杵町は風情ある海沿いの町...
今回は巡礼路22「天正遣欧使節、原マルチノのふるさと波佐見を歩く」の後半をご紹介。西の原地区にある登録有形文化財、旧波佐見町立中央小学校講堂兼公会堂を見学後、波佐見町の潜伏キリシタンの歴史を物語る十字架入りの遺物を見学し、ゴールの川棚駅をめざします。
今回も「キリシタン大名と少年使節の道」をテーマに歩きます。世界遺産巡礼の道の巡礼路19、道の駅さいかいみかんドームから西海橋公園までのコースです。キリシタンの史跡などは残っていませんが、かつてはキリシタン大名、大村純忠が支配していた地。海あり山あり...
前回に引き続き、「キリシタン大名と少年使節の道」をテーマに西海市方面を歩きます。今回は世界遺産巡礼の道の巡礼路18、大田和から木場までのコース。その間には日本初のキリシタン大名、大村純忠が受洗した地でもあり、かつて南蛮貿易港として栄華を極めた横瀬浦...
今月から「キリシタン大名と少年使節の道」をテーマに西海市方面を歩きます。天正遣欧使節の副使、中浦ジュリアンは小佐々水軍の一族で、ふるさとは西海市中浦地区です。今回は世界遺産巡礼の道の巡礼路17に沿って、神浦を出発して、西海の美しい風景を眺めながらジ...
明治のカトリック復活時には諫早に信者はいなかったようですが、昭和初期、長崎などから信徒の転入があり、最初は信徒の家でミサが行なわれていましたが、一人の信者が現教会と幼稚園がある土地を購入し、早坂司教の呼びかけによって1932年に最初の教会堂が立てられ...
優美な眼鏡橋が架かる諫早公園は15世紀後半に西郷氏が築城した高城(諫早城)があった場所で、1587年から明治維新までは龍造寺氏(後の諫早氏)の居城でした。頂上(本丸跡)に茂る巨大クスノキは樹齢800年と言われており、築城時から諫早を見守っています。今回は諫早公園...
長崎街道の中でも難所に一つといわれる鈴田峠は、大村領と諫早領との境の峠で、今でも当時の景観を残している道として、文化庁の「歴史の道百選」に選ばれています。駕籠立場跡や藩境石など、当時の街道の面影が残る史跡を探訪できます。
かつてキリシタン大名・大村純忠の領地であった大村。市内には2つのカトリックの教会堂があり、中心部にあるのが水主(かこ)町教会堂で、アーケードの入口付近からも神々しい十字架を眺めることができます。今回は水主町教会堂を出発し、本陣跡や五色塀の草場小路など...
大村市内にはキリシタン弾圧に関係するスポットがいくつもありますが、今回訪れた大村牢跡もそのひとつです。本小路を歩いた先にあるので「本小路牢」とも呼ばれ、1648年(慶安元)3代藩主大村純信の時に長崎奉行からの要請で、異国の囚人や特別に幕府の指令によって捕...
前回から引き続き、大村のキリシタンゆかりの地をめぐりました。白亜の聖母像がたたずむ獄門所跡と放虎原殉教地を訪れたあと、大村家の菩提寺、本経寺へ。その後、大村純忠らがローマに派遣した天正遣欧少年使節がモチーフとなった天正夢時計を眺めながら、450年の歴...
今回は東彼杵町の有名駅舎「JR千綿駅」を出発し、大村市の松原宿を経由し、郡崩れゆかりの首塚や胴塚、獄門所跡などを訪ねます。長崎街道の宿場町として栄えた松原宿は建物や神社、史跡などに今でもその面影を残していて、歩くのも楽しい通りです。
今回は川棚駅近くの城山公園からスタートし、国道205号を東彼杵町方向へ歩くコースです。“琴の海”と呼ばれる波穏やかで美しい大村湾を間近で感じる道や、かつて長崎街道の宿場町の面影を残す彼杵港周辺などを歩き、今から450年ほど前、日本二十六聖人が時津に向けて...
天正遣欧少年使節の一人としてローマに渡った原マルチノのふるさと、波佐見。かつてはキリスト教が栄えましたが、今はその面影は無く、全国屈指のおしゃれな焼き物の里として、魅力ある施設やショップが続々オープンしています。今回はそんな波佐見に昨年オープンし...
平戸街道は、県北の山間にひっそりと続く道で、平戸藩の殿様が参勤交代の折に歩いたことから、地元では「とんさんみち」とも呼ばれています。山中には特に目印もないので、各所に設置された案内板が頼りに歩きましょう。川棚に出たら、キリシタン墓碑のある常在寺ま...
前回から引き続き、キリシタンの歴史が残る横瀬浦を散策したあと、西海市のグリーン・ツーリズムの拠点にもなっている道の駅「さいかいみかんドーム」をめざして歩きます。その途中には、波穏やかな大村湾やみかん畑が連なる風景、佐世保市にそびえる戦争遺構の一つ...
太田和から横瀬浦までは歩いて約2時間。長距離ではありますが、大島大橋を眺める海岸線などは西海の絶景を楽しめるコースです。日本初のキリシタン大名・大村純忠が長崎よりも早く開港したのが横瀬浦港。この波静かな小さな入り江にかつて南蛮船が来航し、教会が建ち...
キリシタン大名・大村純忠の名代として14歳の若さで天正遣欧使節の一人としてローマに渡った中浦ジュリアン。しかし、華々しいローマでの歓迎ぶりとは裏腹に、帰国後の日本は禁教政策に入り、悲しい運命をたどります。今回はそんなジュリアンの生誕地である中浦地区...
西彼杵半島はかつては大村純忠の領地であり、キリスト教が栄えた場所。およそ14歳の若さで天正遣欧使節の一人としてローマに渡った中浦ジュリアンは、西海市中浦に本拠地を置く小佐々氏の一族と言われています。小佐々氏(小佐々水軍)は戦国時代にこの一帯を治めてい...
今週から世界遺産巡礼の道Ⅳ「キリシタン大名と少年使節の道」をぶらりと歩きます。神浦地区は、外海地区で最初にキリスト教が栄えた場所。城主が1571年に受洗すると、たちまちキリスト教が栄え、教会堂はもちろんレジデンシア(支部修道院)が設置された時期もあったそ...
戦国時代に築造されたという桃山様式の大名庭園が残る諫早市の高城回廊は市役所、高城公園、諫早公園周辺を一周する約1.3キロの情緒豊かな散策路。特に夏は樹木が日差しを妨げ、涼しくおすすめの場所です。今回はそんな高城回廊を歩いて、諫早市図書館にあるコンスタ...
川棚川は、佐賀県・長崎県境の桃ノ木峠を水源とし、大村湾に注ぐ二級河川で、流域は川棚町から波佐見町まで延び、周囲には田畑を望む川沿いには遊歩道が整備されています。今回は、その遊歩道を通って川棚から波佐見まで歩いてみました。波佐見は天正遣欧使節の原マ...
彼杵宿と千綿宿は、どちらも波静かな大村湾沿いにあり、長崎街道の宿場町として栄えた歴史があります。八坂神社、元禄波止場など歴史的な建造物が残る旧彼杵港から日本二十六聖人が時津へと向かった海岸に立ち寄り、その後、千綿宿、奇跡的に残ったキリシタン墓碑へ...
激しい弾圧の中にあっても奇跡的に残った川棚町のキリシタン墓碑。今回は、キリシタン墓碑を訪ねたあと、2つの戦時遺構に足をのばしてみました。太平洋戦争時代、海軍工廠が建てられた川棚には、今も町内のあちこちに戦争の歴史を伝えるスポットがあり、特攻殉国の...
長崎県のほぼ中央に位置し、波静かな大村湾に面した川棚町。大村湾に大きく突き出た大崎半島は、付近に小島が点在して屈曲に富み、県立自然公園に指定される風光明媚なところで、キャンプ場や海水浴場、温泉のほか、県下唯一のくじゃく園があることでも知られていま...
中浦ジュリアンは有馬のセミナリヨで学び、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノらとともに天正遣欧使節に選ばれ、1582年にヨーロッパへと海を渡りました。ジュリアンはヨーロッパの記録で、中浦の領主(大村氏の家臣・小佐々氏の一族)の子とあり、「館」とよば...
純忠は日本で最初のキリシタン大名となり、洗礼名をドン・バルトロメオといい、亡くなるまで敬けんなキリスト教信徒でした。晩年は、「坂口館」という大村家の館で、病とたたかいながらも、信仰の生活を送り、1587年に55歳の生涯を閉じました。本経寺は大村家の菩提...
戦国時代、大村純忠が築いたとされる三城城。1572年、武雄の後藤氏、諫早の西郷氏、平戸の松浦氏の1500人の連合軍から突如城を攻撃されるも、城にいた7人の武将と女、子どもら70余名の大奮闘で勝利しました。この出来事は「三城七騎ごもり」として語り継がれています...
伊奈姫は、大村純忠の娘(洗礼名マリナ)で、家臣の浅田家に嫁ぎました。弾圧が激しくなると、浅田氏は大村藩の領地だった琴海の戸根に日蓮宗寺を装った庵をつくり、伊奈姫はそこで密かに宣教を行っていたと伝えられています。今回は、伊奈姫の墓を訪れたあと、天正...
大村市内にある殉教地の多くは、1657年(明暦3)、大村で603人の潜伏キリシタンが見つかった大事件「郡崩れ」に関係した場所です。今回訪ねた3ヶ所も、郡崩れで捕らえられて殉教した131人の処刑後の悲惨な出来事を今に伝えています。当時のキリシタン弾圧の厳しさを...
3月は、日本初のキリシタン大名「大村純忠」の拠点であった大村の地を5週に渡ってご紹介します。純忠がキリシタンになったことで大村では領民のほとんどが信徒でしたが、徳川幕府のキリスト教禁止令(禁教令)によって、信徒たちは厳しい弾圧を受けることになりまし...
豊臣秀吉の命によって長崎の西坂で日本二十六聖人が処刑されたのは1597年2月5日、旧暦で言えば慶長元年12月19日。先週ご紹介した東彼杵町の彼杵浦から舟に乗せられた一行は時津港に着き、翌朝、西坂を目指して歩きました。今月は26聖人の一行が歩いた浦上(時津)街道...
長崎街道の中でも彼杵宿は平戸街道への分岐点として重要な役割を担っていました。豊臣秀吉の命により京都で捕らえられた日本二十六聖人の一行は、処刑される前日、東彼杵の海岸から船で時津に向かいました。その地は今も悲しい歴史に思いを馳せる大切な場所として記...
波佐見地区の潜伏キリシタンは、1865年の郡崩れを機にほとんど消滅したと考えられていますので、現在、波佐見町に残るキリシタン墓碑はそれ以前のものと推定されています。紅葉が目立ち始めた秋の日、波佐見町ののどかな山里にあるキリシタン墓碑をたずねました。
波佐見町のキリシタンに関する歴史資料は非常に少なく、原マルチノが波佐見町出身だという根拠もローマにある資料に「肥前国ハサミの首長の子」と書かれていることが由来になっています。しかし、町内で発見されたというキリシタンの遺物を見ると、紛れもなく波佐見...
波佐見町は、布教当時は大村藩の中でもキリシタンが多い村でした。その後の弾圧でキリシタンは姿を消してしまい、現在は教会堂などはありませんが、波佐見出身で天正遣欧使節の一員としてローマに渡った原マルチノの銅像が立てられ、キリスト教の歴史を伝えています。
実は長崎よりも早く南蛮貿易港として栄え、キリシタンの町となった横瀬浦。開港からわずか1年後に焼き討ちにあい消滅してしまいましたが、それがなければ、もしかしたら横瀬浦が後に日本のキリスト教の拠点となる長崎だったかもしれません。横瀬浦を歩くと、そんな...
約420年前、平戸の次に南蛮貿易港となった横瀬浦は、「日本史」の著者としても知られる宣教師ルイス・フロイスが日本に降り立った最初の地でもあります。開港と同時にキリシタンの町となり、現在の横瀬浦公園がある場所にはりっぱな天主堂があったといわれています。
1562年、平戸にかわって南蛮貿易港となったのが横瀬浦。教会が建てられ、港は「聖母の港」と呼ばれるようになり、大村純忠はこの地で家来と共に受洗しました。残念ながらその繁栄は1年で終わってしまいましたが、横瀬浦を訪ねると今も歴史の面影をあちこちで感じる...
江戸時代になると、徳川幕府はキリスト教の信仰を禁止し、大村藩もキリシタンに厳しい弾圧を行いました。しかし、かつてキリシタン大名が支配した大村には多数のキリシタンが存在し、彼らの中には禁教後も隠れて信仰を続ける人も多くいました。1657年に起きた潜伏...
大村市には大村純忠に関するスポットはもちろん、大村家に由来する文化財も多く点在します。大村家の菩提寺である本経寺もその一つで、大きな墓は大村家がキリシタンをやめ、仏教徒になったことをアピールするためともいわれています。本経寺の見学後、江戸時代の...
大村純忠は、島原の有馬家から養子として大村家に迎えられ、大村家の領主となると、横瀬浦、福田、そして長崎を開港して南蛮貿易を行いました。また、日本初のキリシタン大名となり天正遣欧少年使節の派遣など歴史に残る多くの事業を行いました。今回は大村市で、...
2019年10月に大村市にオープンした「ミライon図書館」。県立・市立一体複合型図書館で、都道府県と市町村が共同運営する図書館としては日本で2例目という、まさに公共施設の未来を感じる運営スタイル。今回は、図書館に併設されている大村歴史資料館を訪ねてみまし...
西海市西彼町平原にあるキリシタン墓碑は、平原を開拓した相川家一族の先祖で、 相川勘解由左衛門慰藤原義武の墓碑といわれています。相川勘解由は大村藩の家令で、松浦氏の家臣で形上一帯を領した武将 。西彼町キリシタン墓碑は、もともと形上にありましたが、子孫...
戦国時代、日本人として初めてヨーロッパに公式に派遣され、ローマ法王に謁見した天正遣欧少年使節。今年1月には彼らの物語が初めて実写ドラマ化され世界に発信されました(Amazon Prime Videoで配信)。今回は、改めて大村市にある天正遣欧少年使節像を訪ね、彼らの功...
諫早は佐賀藩だったこともあり、歴史的にはキリスト教は根付いていませんが、昭和に入り宅地開発がされニュータウンができたことで信徒の数も増え、1932年に諫早小教区が創立され、1983年に現在の聖堂が改築・献堂されました。諫早の中心部の高台にあり、敷地からは...
諫早市は旧佐賀藩諌早領であり、大村藩の大村市や有馬領の島原地方に比べてキリスト教の足跡が少ない土地柄です。しかし、キリスト教が繁栄した16世紀、諫早生まれの15歳の少年ドラードが天正遣欧少年使節に随行したという歴史が伝えられています。今回は、新緑の諫...
今週は諌早市高来町へ行ってきました。先週の小長井教会堂と同じく、多良岳の中腹の風光明媚な地に修道会と修道会が設立した社会福祉施設などがあり、その中に湯江教会堂があります。主に施設の利用者と職員のための教会堂で、見学に訪れたときも堂内では熱心にお祈...
自然豊かな諌早市を代表する多良岳。その中腹に位置する山茶花高原の近くには、カトリックの修道院や福祉施設、教育施設が集まったエリアがあり、その中に小長井教会堂があります。春の心地よい日差しと爽やかな風を感じながら、小長井町に足をのばしました。
まちの中心を穏やかな長与川が流れ、山にはみかん畑が広がる風光明媚な長与町。長崎のベッドタウンとして発展し、今では県下で最も人口の多い町となりました。信徒数も多く、町の中心部に素晴らしいステンドグラスを備えた立派な教会堂が建っています。
時津町は、かつては船待ちの港として栄えた古い港町。長崎街道の脇街道である時津街道が通り、たくさんの人や物が行き交いました。1970年代になると湾岸を中心に工場誘致が進み、また長崎市のベッドタウンとしても人口が増加。そのため滑石小教区の巡回教会として時...
時津港沖に浮かぶ鷹島は、1617年にドミニコ会の2人の神父が処刑された地です。宣教師たちの日本再潜入に火をつけた殉教といわれています。2人の神父は共に206福者となっています。今回は、その鷹島を最もよく眺められるスポットへ行ってみました。
大崎温泉やくじゃく園などでも知られる川棚町。キリスト教は、戦後、オーストラリア人のF.フリン師の宣教により、一戸の信徒家族より出発し、1950年、教会・幼稚園・保育所の事業を開始、1952年にスカポロ外国宣教会に移管、1966年に現在の聖堂を建立しました。日本...
先週の東彼杵町から少し足をのばして川棚町を散策。川棚町は、九州のマッターホルンと呼ばれる虚空蔵山を望む風光明媚なまち。キリシタンの歴史もあり、町内のお寺の墓地には奇跡的に難を逃れたキリシタン墓碑が残っています。
お茶の産地として知られる東彼杵町は、近年新しいスポットが登場し、若い人たちからの注目を浴びています。その中でも海が見えるレトロな駅舎として知られる千綿駅と旧米倉庫をリノベーションして活用したショップ&カフェは大人気。実は、その旧米倉庫の隣にある小...
東彼杵町は、長崎街道の「彼杵宿」が置かれたところで、昔から交通の要衝として栄え、幕府の役人や長崎警備の福岡藩などの武士たち、オランダ商館長も行き来しました。また、日本二十六聖人が彼杵の海岸から船に乗せられ時津港まで送られたという歴史もあり、一行の...
今回は天正遣欧使節の一人、原マルチノの出身地である東彼杵郡波佐見町へ行ってみました。マルチノは使節の中では最年少でしたが、有馬のセミナリヨに通う頃から優秀で、特に語学に長けており、ローマからの帰途のゴアでラテン語の演説を行ったといわれています。
禁教期にはキリシタンが収容された牢屋が各地にありましたが、大村市の鈴田牢は、周囲も天井も竹の柱で囲まれた鳥籠のような部屋で、広さは奥行6.6m、間口4.6m、横に寝ることも身動きさえ自由にはできなかったと伝えられます。
1657年、大村領内で「郡崩れ(こおりくずれ)」という事件が起こりました。郡村を中心にキリシタン608人が捕らえられ、取り調べ中に78人が死亡、20人が永牢(終身刑)、411人が斬首という厳しい処罰が下されました(人数については諸説あり)。今回はその発端となっ...
バルトロメウという洗礼名を持った大村の領主・大村純忠。長崎に港を開き、キリシタンの町を作り、戦いに明け暮れた純忠。晩年は、病に伏せ、大村の地で静かに祈りの毎日を過ごしたと言われています。今回は純忠の終焉の地と植松教会堂を訪ねてみました。
日本初のキリシタン大名・大村純忠の拠点であった大村は、領民のほとんどがキリシタンでした。そのため、禁教令が出されても信仰を守り続ける人が多く、殉教者もたくさん輩出しています。今回は、郡崩れ以前の歴史をたどってみました。
前回は大島の中心部をぶらっとしましたが、今回は島の西側の静かな漁師町にある太田尾教会堂をめざします。太田尾漁港付近から細い坂道をのぼった先にある美しい教会堂で、設計者は不明ですが、堂内の造りに特徴がある見応えのある教会堂です。
大島のキリスト教の歴史は、文政年間(1820年頃)に外海地方の潜伏キリシタンが移住してきたことに始まりますが、解禁後にカトリックに復帰する人は少なく、少数の信徒が家御堂で礼拝行事を行っていました。ようやく信徒が増え、教会堂が創建されたのは昭和になって...
天正遣欧少年使節の一人、中浦ジュリアン。現在の西海市中浦に生まれ、有馬のセミナリヨで学んだあと、天正遣欧少年使節の副使に選ばれて渡欧。ヨーロッパ各地で大歓迎を受けたものの、帰国後は波乱
の人生が待ち受け、最後は西坂で殉教しました。今回はジュ...
長崎から海沿いを走る国道202号線は、サンセットオーシャン202と呼ばれる人気のドライブルート。天気の良い日は、海の向こうに、かつて潜伏キリシタンが新天地を求めて移り住んだ五島列島が望めます。今回はR202を通って大瀬戸をめざします。
諫早教会堂から湯江教会堂、そして小長井教会堂へ。多良岳のふもとにある教会や修道院には、長崎市本河内を拠点に布教活動を続けたコルベ神父の愛の心が息づいていました。
今週と来週の2回は早春の諫早市をめぐる旅。1回目は、新鮮な野菜や海の幸が揃った農家直売所を起点に諫早図書館にあるコンスタンチノ・ドラード像、そして諫早教会堂に建つ聖パウロ三木像に出会いました。
農産物から民芸品、実用品まで多彩な商品が揃った農産直売所を訪れ、「じんざえもん焼」というおいしい回転焼を味わい、時津(とぎつ)教会堂に向かいました。
常在寺(じょうざいじ)の墓地のさらに奥にある川棚(かわたな)町キリシタン墓碑を訪れたあと、戦後、海軍工廠(こうしょう)の払い下げを受けてつくられた川棚教会堂に向かいました。川棚町はキリシタンの史跡だけではなく、戦争の歴史が色濃くのこる町でした。
東彼杵(ひがしそのぎ)町から川棚(かわたな)町へ。常在寺(じょうざいじ)の水琴窟(すいきんくつ)の美しい音色を聞いたあと、参道を通ってキリシタン墓碑をめざします。たよりは目的地までの距離を示した案内板。果たしてどんなところに墓碑はあるのでしょうか。
キリシタン墓碑の近くにあったおしゃれなコミュニティスペース、そしてレトロなたたずまいを活かした千綿(ちわた)駅の新たな取り組み。古いものと新しいものが交差する東彼杵(ひがしそのぎ)町の「今」にふれたような気がしました。
日本二十六聖人乗船場跡から大村(おおむら)湾を一望する茶畑へ。産地ならではのおいしいお茶を味わい、緑豊かなすばらしい風景を堪能しました。
東彼杵(ひがしそのぎ)町の観光・物産の拠点、彼杵の荘(しょう)から日本二十六聖人乗船場跡へ。長崎(ながさき)街道の彼杵宿として栄えた町に残る殉教者の足跡を訪ねます。
西海橋(さいかいばし)公園から車を走らせ、二つのキリシタン史跡へ。ひとつは迷ってしまい、遠くから眺めることに。もうひとつは道しるべのおかげでスムーズに到着。ぶらり旅はうまくいったりいかなかったり・・・。
上町(うわまち)跡・下町(したまち)跡から長崎甚左衛門純景(ながさきじんざえもんすみかげ)居宅跡へ、そして思案橋(しあんばし)跡、丸山(まるやま)跡と南蛮貿易港時代の横瀬浦(よこせうら)を堪能したあとは、うず潮の季節を迎える西海橋(さいかいばし)...
八ノ子島(はちのこじま)が見える防波堤から港沿いに車を走らせ、南蛮船来航の地へ。貿易港として繁栄した時代に想いをはせながら、静かな上町(うわまち)跡、下町(したまち)跡をめぐりました。
横瀬浦(よこせうら)公園から車で岬のほうに移動。西海(さいかい)市の人気のスポット、船番所(ふなばんしょ)で昼食をいただいたあと出会ったのは白い十字架が立つ八ノ子島(はちのこじま)でした。
横瀬浦(よこせうら)が南蛮貿易港として繁栄したのは開港からわずか1年あまり。まちを見おろす小高い丘にはその歴史が今も息づいています。
西海(さいかい)市の情報発信地であるみかんドームを皮切りに、地元ならではの特産品直売所やお菓子屋さんに立ち寄り、南蛮船来航の地となった横瀬浦(よこせうら)をめざします。
放虎原殉教地から妻子別れの石へ。道に迷いながらも続く史跡めぐり。キリシタン弾圧の壮絶で悲しい歴史が胸に迫ってくる。
大村家の墓所がある本経寺を訪れたあとは、道に迷いながら行ったり来たり・・・。ようやく獄門所跡、放虎原殉教地へたどり着きました。ふーっ!
富松神社から三城城跡、宝生寺跡をめぐり、また踏み切りを越えてバスターミナルビルの前に。歩いたあとの楽しみはやはりおいしい昼ごはんでした。
なんとなく歩きはじめたものの、気が付けば線路を越えてお寺や神社をめぐることに。初めて訪れた格式あるそのたたずまい・・・。城下町ならではの歴史が息づいています。
少しずつ春の訪れを感じる季節。ゆるやかな陽射しに誘われて大村市にやってきました。今回ものんびりとまちなみを楽しみながら、ぶらり旅がはじまります。