2024年3月20日 公開
湯島は、島原・天草一揆の際、島原と天草の切支丹教徒らが集まり、湯島の峯の盆地で軍議や決起の準備を行ったといわれています。湯島に残る鍛冶水盤は、寛永14年(1637)10月24日に島原・天草一揆を起す際、軍評談合のかたわら、武器の製造のために鍛冶職人が鉄を鍛えるために使用したものと伝えられています。
ルート紹介を見る島原・天草一揆で戦った一揆軍のほとんどがキリシタンの農民でした。幕府の兵糧攻めに合う中、一揆軍は海からポルトガル船が助けにきてくれるのを待ちましたが、海からやってきた船は幕府を応援するオランダの船でした。今回はその光景を想像しながら、原城跡を海側...
キリシタン大名有馬晴信の時代、南蛮貿易等で栄えた有馬の地(現在の南島原市)。長い間、宣教師たちの布教の拠点となりましたが、禁教期に入ってからは厳しい弾圧の舞台となりました。今回訪れた有馬川殉教地も棄教を拒否した有馬直純の3人の重臣とその家族が殉教し...
南島原市は今から450年ほど前にキリスト教の教育機関、セミナリヨが設置された地区で、今もまちのあちこちにセミナリヨゆかりの場所があります。今回訪れた北有馬の八良尾もその一つ。近くには日本唯一となった自然石でできた石橋もあり、歴史のロマンを感じます。
原城から有明海を眺めると、正面にぽっかり浮かんでいるのが湯島(談合島)。その湯島に行くと、島原半島を望む海岸線に「原城スポット公園」という手作りの小さな空間があります。今回は、峯公園から海岸線を通って港へ戻るコースで、その途中に原城スポット公園に立...
有明海の天草諸島と島原半島のあいだにある、1周約4キロの小さな湯島。島原・天草一揆の際、島原と天草のキリシタンが集まって戦略を練ったことから、「談合島」とも呼ばれているほか、戦国時代のキリシタン大名、高山右近ゆかりの地やキリシタン墓碑なども残ってい...
伝説に包まれた天草四郎を中心に繰り広げられた島原・天草一揆。四郎の出身地である上天草市ではゆかりのスポットやモニュメントが各地にあります。その中でも天草四郎ミュージアム(旧天草四郎メモリアルホール)は、一揆が起きた歴史的背景などを映像と共にわかりや...
島原・天草一揆で天草四郎が島原へ向けて乗船した地やキリスト教布教期の野呂々地区の教会跡などを訪ねた後、天草四郎ミュージアムへ向かう途中に崎津集落を訪ねました。海の香りがほんのり漂う集落を歩き、優美に佇む天主堂や風情ある崎津諏訪神社の境内などを眺め...
熊本県南部の山奥に位置する熊本県天草郡苓北町都呂々町は、昭和31年に苓北町と合併するまでは都呂々村でした。現在は自然が豊かな山間の静かな集落に、500世帯、1200人ほどが暮らしています。訪れたのは2月の中旬、ちょうど暖かくなり始めた頃でした。
今回から、天草・島原一揆の一揆軍のリーダー、天草四郎のふるさとでもある天草をぶらりと旅します。天草は、いたるところに天草四郎ゆかりのスポットがありますが、まず、鬼池港で天草四郎像にご対面。その後、海岸線を走り、天草四郎が富岡城攻撃をあきらめたあと...
キリスト教が庇護された有馬晴信の治世下、セミナリヨとコレジヨが現在の南島原市に設置されていました。セミナリヨとは修道士育成のための初等教育機関(中学に相当)で、有馬、八良尾、有家に設置。コレジヨはキリスト教の聖職者を育成するための高等教育機関(大...
南島原市は貴重なキリシタン墓碑がたくさん残っているまちとして知られています。中でも有家地区にあるキリシタン史跡公園は市内から発掘されたキリシタン墓碑を集めた珍しい公園です。また、有家には禁教期に捕らえられたキリシタンが処刑された地も残されています。
島原往還沿いに今村処刑場が置かれたのは島原城築城の頃からで、重罪人の首をはね、見せしめの為にさらし首としていました。また、キリシタンを厳しく取締まった藩主・松倉重政がイタリア人宣教師ナバルロ神父、大村領信者56人の処刑など多くのキリシタン信者の処刑...
現在島原市には70ヵ所を超える湧水地があり、その湧水量は一日20万tといわれています。まちのあちこちに清らかな湧き水が流れる風景に癒されながら歩くと、島原市唯一のカトリックの教会、島原教会堂があります。二十六聖人殉教から400年目の平成9(1997)年に新しく...
島原といえば松倉氏が築いた島原城が有名ですが、キリスト教が伝わった戦国時代には、有馬氏の家臣島原純茂によって「浜の城」が港に隣接するように築かれていました。その後は、島津・有馬連合軍が龍造寺軍を破った「沖田畷合戦」の舞台の一つにもなりました。
2022年の土砂災害を乗り越え、新しいホテルや店もオープンしている雲仙。その中心の観光名所でもある雲仙地獄は、1627(寛永4)年から1631(寛永8)年まで雲仙の焦熱地獄で、キリシタンに信仰を棄てさせるための拷問と処刑がおこなわれた記録があります。今回は夕暮...
前回、悲運ともいえるキリシタン城主、ジョルジュ結城弥平治の足跡をたどりながら金山城跡を訪れ、今回はその近くの狸山まんじゅうからスタート。雲仙殉教者の歴史が残る雲仙教会堂を訪れました。1627年から1632年まで、雲仙地獄は厳しい禁教政策の中、殉教の舞台と...
有明海に面する雲仙市国見町の山手にある金山城跡(別名結城城跡)は、17世紀初頭、キリシタン城主として晩年を信仰に生きたジョルジュ結城弥平治によって築かれた山城です。秋晴れの中、美しい有明海の眺望や人気のスイーツも楽しながら、城跡を訪ねてみました。
1590年のフロイスの記録に千々石の司祭館の管轄にある「野井」という地は、現在の愛野教会がある一帯を指すと言われています。当時はキリスト教が栄えましたが、その後の禁教政策の中で信徒はいなくなったと言われています。今回は美術館や可愛い愛の駅などを訪ねた...
島原・天草一揆は1638年4月12日に一揆軍が全員討ち死して終焉を迎えましたが、一揆勢の首は3分割して、長崎の西坂と天草の苓北町富岡、そして雲仙市愛野町(旧愛津村)に埋祀したとも伝えられています。現在、その場所には小さな円墳があり、一揆の初め一揆軍とこれ...
今回は、世界遺産巡礼ⅴ「キリスト教繁栄と島原・天草一揆の道」の巡礼路34の後編、頼山陽公園から島原・天草一揆のもう一つの舞台、富岡城を経由し、富岡港をめざします。富岡城内には、苓北町の歴史を紹介する展示物の他、キリスト教の迫害で処刑されたアダム荒川を...
世界遺産巡礼ⅴ「キリスト教繁栄と島原・天草一揆の道」の巡礼路34は、下田温泉から富岡港までのコース。以前は1日1便バスが通っていましたが、現在は廃止となっています。「天草西海岸サンセットライン」と呼ばれる海沿いの道路を、潮風を感じながら歩きましょう。今...
今回は、世界遺産巡礼ⅴ「キリスト教繁栄と島原・天草一揆の道」の巡礼路33の後編、大江教会を訪ねたあと、徒歩とバスで移動して下田温泉をめざします。途中にある「五足の靴文学散歩道」の周辺にある展望所からの絶景は息をのむほどの美しさです。※五足の靴文学散...
世界遺産巡礼ⅴ「キリスト教繁栄と島原・天草一揆の道」の巡礼路33は、天草に渡ったあと、崎津集落と大江教会を訪ね、五足の靴文学散歩道を歩いて下田温泉へ向うコース。見所いっぱいなので、今回は前半の崎津集落から大江教会までのルートをご紹介します。
世界遺産巡礼ⅴ「キリスト教繁栄と島原・天草一揆の道」の巡礼路32は、島原・天草一揆の舞台となった原城跡を見学した後、長崎よりも早く南蛮船が来航した歴史ある港町、口之津港をめざします。原城跡は、城全体を含めると東京ドーム10個分ほどの広さがあり、歩き応え...
世界遺産巡礼ⅴ「キリスト教繁栄と島原・天草一揆の道」の巡礼路31は、キリシタン文化が花開いた日野江城下を歩くコース。南島原市役所がある西有家をスタートして、海岸沿いを歩き、北有馬を散策したあと南有馬まで歩きます。キリスト教が花開いた頃の史跡のほか、禁...
世界遺産巡礼ⅴ「キリスト教繁栄と島原・天草一揆の道」の巡礼路30は、キリシタン大名、有馬氏の領地を歩くコース。現在の南島原市南有馬町論所原をスタートして、みそ五郎や手延べそうめんが有名な西有家町をめざします。ゴール近くの切支丹墓碑のほか、山道を抜ける...
前回に引き続き、世界遺産巡礼ⅴ「キリスト教繁栄と島原・天草一揆の道」巡礼路28「かつての殉教の地は、外国人避暑地の人気ルートへ」の後半を歩きます。禁教期、長崎で捕らえられたキリシタンが処刑された雲仙地獄がある温泉街を散策。近年、豪雨災害や新型コロナの...
今回から世界遺産巡礼ⅴ「キリスト教繁栄と島原・天草一揆の道」に入り、巡礼路28「かつての殉教の地は、外国人避暑地の人気ルートへ」を歩きます。禁教期、長崎で捕らえられたキリシタンの中には茂木港から船で小浜に運ばれ、処刑地の雲仙地獄まで、山道を歩いて登っ...
今回は「キリシタン大名と少年使節の道」をテーマの最後、巡礼路27「天正遣欧少年使節、千々石ミゲルのふるさとを歩く」の後半をご紹介。千々石の海岸沿いを歩いた後、商店街を通ってゴールのミゲル像のある雲仙市千々石支所へ。その後、国道を通ってミゲルゆかりの...
今回は「キリシタン大名と少年使節の道」をテーマの最後、巡礼路27「天正遣欧少年使節、千々石ミゲルのふるさとを歩く」の前半をご紹介。歩いたのは、1月の下旬、粉雪が舞い散る厳寒の日、北風に肩をすぼめながら海岸沿いを歩きました。でも歩いていると次第に体が温...
世界遺産巡礼の道のⅣ「キリシタン大名と少年使節の道」は、大村純忠ゆかりの地や天正遣欧少年使節のふるさとを巡りながら、9つの市町を巡るコース。今回は、そのゴールとなる巡礼路27の唐比から千々石までのコースです。ゴールには真新しい世界遺産巡礼のモニュメン...
島原半島の「世界遺産巡礼の道」の中で最もハードなコースが高岩山。雲仙の宝原園地から無数の鳥居をくぐりながら登り、下りは九州自然歩道の案内板を参考に、南島原市塔ノ坂(とうのさか)という小さな集落をめざして林道を進みます。頂上からは島原・天草一揆ゆか...
島原半島はキリシタン大名の有馬氏の保護の元でキリスト教が栄えましたが、禁教期は各地で厳しい弾圧が行われました。その中の一つ、雲仙地獄では1627年、武士のパウロ内堀作右衛門ら26人が熱湯に投げ込まれ殉教。2008年、福者に列せられました。毎年5月には殉教祭も...
1627年島原藩主・松倉重政は雲仙地獄の熱湯をキリシタンへの拷問に使用、長崎奉行・竹中采女正重義も長崎の牢に繋がれていたキリシタンを小浜経由で雲仙地獄に連行し、棄教するよう弾圧を加えました。雲仙殉教道は、小浜や口之津方面から登ってきた道が、合流する地...
1629年7月、長崎で捕らえられ、茂木港から橘湾を渡ってきたキリシタンは、62名と言われ、小浜温泉街を通って処刑地の雲仙地獄まで歩いて連行されました。その道沿いには、今も「鬢串」や「耳採」など、キリシタンへの拷問をうかがわせる地名が残っています。
禁教期、長崎で捕らえられ、茂木港から橘湾を渡ってきたキリシタンは、石合浜に降り立ったあと、温泉街を通って、処刑地である雲仙地獄への険しい山道を歩いて連行されました。途中の休憩所では、キリシタンは水を飲むことも許されなかったと伝えられています。今回...
夕陽が美しいことでも知られる雲仙市小浜町。千々石町から海沿いを歩いて小浜の中心部を目指すと旧小浜鉄道の記念碑や、「緑のトンネル」とよばれる雰囲気の良い道路があります。海辺の道を抜けて国道を進むと、禁教期、長崎で捕らえられ、茂木港から橘湾を渡ってき...
千々石は、天正遣欧使節の一人、千々石ミゲルの生誕地です。千々石ミゲルの本名は千々石紀員(のりかず)で、父は有馬晴純の三男で、千々石淡路守直員。大村純忠の甥にあたり、有馬晴信とは従兄弟という関係です。今回はミゲルの父の直員が建てた釜蓋城の跡に建つ展望...
先週は、諫早市で天正遣欧使節に随行した少年、ドラードの像を見学に行きましたが、今週は天正遣欧使節の一人、千々石ミゲルの像を見学に、千々石を訪れました。「ミゲル」は洗礼名で、本名は千々石紀員(のりかず)で棄教後は千々石清左衛門に改名。彼が一番輝いてい...
南島原市内には100基を超えるキリシタン墓碑が確認され、そのうち有家町内の道路端や石垣、畑の中などに点在していた墓碑を集めたものが有家キリシタン史跡公園です。この地で最もキリスト教が栄えた天正年間(1573-1592)には2つの教会があり、住民は全員信徒だった...
セミナリヨとは、イエズス会によって日本に設置された司祭・修道士育成のための初等神学校のことで、最初、日野江城下に置かれたセミナリヨは、秀吉のバテレン追放令などの影響を受け、有馬領内の八良尾(北有馬)に移転し、その後1595年に有家に移転しました。現在...
南島原市加津佐町は、ルイス・フロイスの記録に「修院も学校も海に近い丘の上にある」などと記載があるように、かつてキリスト教が繁栄した町です。また、加津佐にあったコレジヨでは、日本で最初のキリシタン版『サントスの御作業の内抜書』が刊行されました。
口之津港は、古くから多くの船が交易に来る港でしたが、1562年有馬義直(のちの義貞)によりポルトガル船の寄港地として許され、正式に南蛮貿易港として開かれました。1567年にポルトガル船3隻が入港し、また、キリシタン布教の拠点となり、天主堂も建てられました。
戦国時代、島原半島を治めていた有馬義貞は弟の大村純忠が横瀬浦を開港した1562年に口之津を開港、1582年までポルトガルとの交易が行われました。宣教の拠点となった口之津には、イエズス会の巡察使ヴァリニャーノやアルメイダなども来航し、口之津を拠点に宣教活...
1563年、アルメイダが島原半島で初めて口之津で250人に洗礼を授け、その4年後に南蛮船が入港。キリスト教は島原半島全体に広がり、口之津は布教の中心となったといわれています。その証ともいえるのが、各地から発掘、発見されているキリシタン墓碑。島原半島で発...
長崎から﨑津集落をめざしたバス旅も、いよいよ今回がラスト。天草では﨑津集落の世界文化遺産登録を記念して3宗教巡拝の御朱印を頂くことができます。前回紹介した﨑津教会堂に続き、﨑津諏訪神社と仏教のお寺の普応軒をまわり、世界中でここしかない御朱印をゲッ...
今回はいよいよ世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産である天草市の﨑津集落に到着。散策できる時間は3時間半ほどですが、まずは﨑津集落ガイダンスセンターで情報収集後、﨑津教会堂を見学し、すぐそばにある「﨑津資料館みなと屋」を...
天草市内に泊まり、翌朝、いよいよ﨑津集落へ向けて出発します。バスで行く場合は、本渡バスセンターからまず下田温泉まで行き、そこから河浦行きに乗り換えないといけません。せっかくなので、バスの待ち時間に下田温泉街を散歩してみました。※バスの時間は曜日や季...
12月から引き続き、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産である原城跡と﨑津集落を路線バスで訪ねる旅をご紹介します。今回は、南島原市の原城跡を散策したあと、口之津港に向かい、フェリーで鬼池港着。そこから最終バスで本渡市内へ...
諌早市を出発して、バスで南島原市の原城跡と天草の﨑津集落を巡る旅。今回はようやく目的地の一つ、原城跡に到着します。原城跡から徒歩30分のところに「南島原市有馬キリシタン遺産記念館」があるので時間の余裕があれば寄りたいですね。口之津港発のフェリーの時...
南島原市の原城跡と天草の﨑津集落の2つをバスで巡る旅は、まだまだ序盤。今回は、雲仙からバスに乗って島原市に移動し、城下町をしばし散策しました。事前に時刻表でチェックしてちゃんと予定を立てて動くと、路線バスでもいろんな場所を回ることができますよ。
南島原市の原城跡と天草の﨑津集落の2つを1泊2日で巡る旅の途中、最初に立ち寄った雲仙温泉。今回は、湯けむりと硫黄の匂いが旅情をかきたてる雲仙地獄を30分ほどで散策してみました。江戸時代はキリシタンの処刑も行われていた雲仙地獄には、キリシタン殉教碑が建て...
前回から引き続き、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産を路線バスで訪ねる旅をご紹介します。今回は、南島原市の原城跡と天草の﨑津集落の2つを1泊2日で巡る旅がスタート。路線バスを乗り換えながらの旅は、車での移動とはまた違った...
1590年のルイス・フロイスの記録に千々石の司祭館の管轄にある「野井」という地名で現在の愛野町一帯が紹介されているなど、いち早くキリスト教が広まった地区の一つです。今はのどかなじゃがいも畑が広がる農村地帯ですが、可愛い教会堂と、キリシタンの伝説を秘め...
400年以上前、日本にキリスト教が伝来した頃に活躍した宣教師ルイス・フロイスが「日本史」の中に書き残した「小浜の聖なる十字架」の話は、当時のヨーロッパで広く紹介されたと言われています。今回は、当時のキリスト教繁栄の歴史をうかがわせる雲仙市小浜町のキリ...
江戸時代、幕府は捕らえたキリシタンに対して改宗を迫り、1627年から1631年まで雲仙はキリシタン責めの場所となり、地獄につけたり熱湯を浴びせるなど、過酷な弾圧が行われ、多くの人が命を信仰に捧げました。今回は、5月に殉教祭を終えたばかりの雲仙の殉教地を訪ね...
禁教期に小浜から雲仙地獄まで歩いて連れて行かれ、処刑されたキリシタンたち。前回は、石合浜から休憩所となった上の川湧水までの道のりを辿りながら、弾圧の歴史に思いをはせました。今回は小浜の温泉街を抜けたところから、殉教の道をたどってみました。
温泉で有名な雲仙市小浜町にも、キリシタン弾圧の歴史が残っています。禁教期、長崎で捕らえられたキリシタンが茂木港から船で小浜に送られ、そこから雲仙まで歩いて連れて行かれ、地獄で処刑されたのです。今回から2週に分けて、小浜から雲仙までの道をたどりながら...
南島原市は国内でもキリシタン墓碑が多い地域として知られています。2012年に発刊された「日本キリシタン墓碑総覧」に掲載されている国内202基の墓碑のうち、なんと114基が南島原市に存在。今回はその中から、北有馬町にある墓碑を訪ねながら、周辺の名所にも足を運...
戦国時代、有馬氏の居城であり、華やかな城の様子が宣教師の記録にも残されている日野江城。キリスト教が栄えた時代は城下にセミナリヨが開設されるなど、布教の拠点となりました。しかし、禁教期に入ると、厳しい弾圧により殉教の舞台となるなど、悲しい歴史も刻ん...
世界文化遺産の原城跡は、島原・天草一揆の舞台として昔から知られていますが、訪れる際には、近くにある有馬キリシタン遺産記念館で軽く予備知識を入れておくのがコツ。そうすると、原城跡を何倍も興味深く見ることができますよ。せっかくなので、周辺も散策してみ...
前回は千々石ミゲルの生誕地である雲仙市千々石町の釜蓋城址などを訪ねましたが、千々石町には他にも千々石ミゲルゆかりの場所があります。散策の途中、故郷の「偉人」として大切にされていることが実感できる銅像に出会いました。
天正遣欧少年使節の一人としてローマに渡った千々石ミゲル。帰国後、イエズス会に入会するも、脱会し、さらには棄教したと伝えられていましたが、近年千々石ミゲルの墓と思われる場所からロザリオ等が出土したことなどから、本当は棄教していなかったのでは?と波紋...
ジャガイモの産地として知られ、赤土の大地が広がるのどかな愛野町。1590年のフロイスの記録にある、千々石の司祭館の管轄にある「野井」という地は、愛野教会堂がある一帯を指しているといわれています。今回は、そんな愛野の小さな丘に建つ、可愛い教会堂を訪ねて...
富岡城は天草の領主・肥前唐津藩の寺沢志摩守広高によって1604年に築かれました。天草四郎が率いる一揆軍の2度にわたる猛攻撃にも落城せず、やむなく一揆軍は島原へと渡って行ったと伝えられています。平成になってから復元されたという富岡城へ行ってみました。
1887年、天草のフェリエ神父は、貧しさの中で食べ物に困っている子どもたちを引き取り、根引山を開拓し、自立を促すための孤児院を建設。「根引きの子部屋」と呼ばれていたそうです。時間が流れ、孤児院跡が発見されたのは1960年代のこと。現在は地元の信徒たちによ...
江戸時代の干拓によって田畑が築かれ、農業を生業としながら密かに信仰を守っていた今富集落。キリスト教が解禁されても、多くはカトリックへ復帰せず、「かくれキリシタン」として信仰を続けますが、指導者である帳方が途絶え信仰は衰退。しかし現在も、キリシタン...
天草灘の入江にある小さな漁港・﨑津。日本の原風景ともいえる漁師まちの風景に、西洋の教会堂が融合した独特の景観は、訪れる人を魅了し続けています。その美しい景観を高い場所から眺望できるのが、約600段の石段を登ってたどり着くチャペルの鐘展望公園。ちょっと...
﨑津集落の海岸にある、海に向かって立てられたマリア像。ここを往き来する船人、漁人たちの海の道しるべであり、心の灯となるように建立されました。漁に出る信徒たちは必ず行きと帰りに船から手を合わせるそうです。美しい白亜のマリア様に会いに行って来ました。
2018年の世界遺産登録を目指す﨑津集落は、ここ数年間のうちにあちこちに新しい施設が誕生。資料館や案内所、駐車場やトイレなども整備され、以前よりも快適に散策ができる環境になっています。今回は、そんな﨑津集落の新しい施設を尋ねてみました。
口之津からアルメイダ修道士が渡って、1566年に布教が開始された天草。豊臣秀吉から天草支配を任された小西行長の庇護のもとでキリスト教が繁栄し、コレジヨなどもできました。今回は、アルメイダが初めて天草に上陸した河浦町周辺を訪ねてみます。
キリシタン信仰が盛んだった島原半島には100あまりのキリシタン墓碑が見つかっていますが、その中でも一番美しいとされているのが「まだれいなの墓」。その近くには沖田畷の戦いの前夜に龍造寺隆信が過ごしたという寺中(三会)城跡もあります。まだれいなのお墓参り...
島原半島にはキリシタン遺跡や殉教地などがたくさんありますが、島原・天草一揆でキリシタンが根絶されたこともあり、現在も教会堂の数は少なく、島原市内にあるのは島原教会堂のみ。別名は「島原半島殉教者記念聖堂」といいます。過去の悲しい歴史を偲びながら、訪...
1618年より、松倉重政が島原城の築城を開始。4万石の大名としては立派すぎる城であったため、民衆は多大な負担を強いられ、さらには2代目勝家の圧政、キリシタンへの迫害、飢饉も重なり、耐えかねた民衆は1637年の島原・天草一揆を起こしました。その発端となった島...
禁教期、島原半島での厳しすぎるキリシタン弾圧で、領民から「悪魔」と呼ばれた松倉氏。徳川家光の時代になるとさらに激しさを増し、棄教しない領民への残虐な拷問が繰り返されました。今は静かで落ち着いた城下町の面影を残す島原市内で、刑場跡や殉教地を訪ねてみ...
1602年、肥後(熊本)出身のキリシタンで武士の結城弥平次は、有馬晴信の招へいで国見の金山城の城主となり、布教活動が行われました。しかし、晴信の子、直純の時代になると弾圧が激しくなり、弥平次は家来や家族と共に追放され、金山城は廃城となります。秋の気配...
雲仙地獄は、1627年~1631年まで、島原城主・松倉重政がキリシタンを改宗させるために拷問や処刑を行った地。硫黄の匂いと湯けむりに包まれながら、殉教碑が立つ場所を訪ねてみました。
長崎県を代表する観光地であり、国立公園に指定されている雲仙。その歴史をたどると、1600年代には多くのキリシタンが殉教した聖地でもあります。今回は、南串山町から農道を通って、殉教地がある雲仙の温泉街を訪ねます。
岩戸山(いわとやま)から野田浜海岸へ。そして松林の散策道を歩いて砂原(さはら)キリシタン墓碑を訪れました。晩秋の海の風景も心にのこりました。
須崎(すざき)キリシタン墓碑から岩戸山(いわとやま)へ。軽い気持ちで訪れたものの、そこはかつて観音道場があった霊地。「ありがたいやら怖いやら」で登山の途中、いや、山の入口で失礼することになったのでした。
口之津町(くちのつちょう)の南蛮船来航の地から加津佐町(かづさちょう)に向かい、いつものように(?)あちこち迷いながら目的地へ。それにしてもキリスト教文化の繁栄の陰にいろんなドラマがあったんですね。
おいしい昼食のあとは、美しい海岸のそばにあるキリシタン墓碑を訪れ、南蛮船来航の地へ。口之津ならでは歴史を堪能しました。
口之津(くちのつ)教会跡を訪れたあと、車を海岸沿いに走らせ、船舶の安全な航海を見守った口之津灯台、瀬詰崎(せづめざき)灯台を訪れました。
口之津(くちのつ)歴史民俗資料館・海の資料館を訪れ、港とともに繁栄してきたまちの歴史を知り、美しい風景を楽しみながら史跡をめぐります。
西有家町(にしありえちょう)から南有馬町(みなみありまちょう)に入って原城(はらじょう)跡へ。ずいぶん昔に出場したロードレースのことを思い出しながらめぐった広大な城跡——そこは農業を営む人々の暮らしの場でもあったのです。
有家(ありえ)セミナリヨ跡から南島原市役所横の道を通って須川(すかわ)共同墓地へ。その途中にあのプロ野球選手の母校がありました。
有家(ありえ)キリシタン史跡公園から坂道を下りていくと温泉(おんせん)神社がある。この日はちょうど秋のお祭り。行列をすり抜けてセミナリヨ跡を訪れたのでした。
人気の店で昼食をとって布津町(ふつちょう)から有家町(ありえちょう)へ。秋の南島原を満喫しながら有家キリシタン史跡公園に向かいます。
有馬(ありま)キリシタン遺産記念館で学び、布津(ふつ)キリシタン墓碑へ。さぁ、秋の南島原市を走る快適なドライブで史跡めぐりをスタート!
初めて訪れたのにどこか懐かしい﨑津集落。歴史ある教会や神社、趣のある家々が軒を連ねる風情ある通り・・・。きっとまた来るんだろうなぁ。そう予感させる魅力ある漁村の旅です。
熊本県天草市天草町大江は、かくれキリシタンの里。その歴史と文化を伝えるロザリオ館、大江教会、コレジヨ館をめぐる旅で、こんな素朴で飾らない飲み物にも出会いました。
昭和の懐かしい風情漂う下田温泉。ここを拠点に大江教会や﨑津教会堂、天草ロザリオ館などを周遊バスでめぐるコースもあります。天草灘に沈む美しい夕陽も下田温泉ならではの魅力。ゆったりのんびり、心をいやす旅をお楽しみください。
天草にはキリシタンの遺物を個人で収集・展示している資料館があります。そのそばには大きなタコのモニュメントが! そして目の前の国道34号線は「天草ありあけタコ街道」! 干しダコあり、大きなタコ焼きあり、タコづくしの旅です。
キリシタンの布教活動の拠点だった南蛮寺。正覚寺にはその存在を裏付けるキリシタン墓碑が安置されています。墓碑に描かれた十字架、御堂のそばに立つ珍しい樹木、往時に思いを馳せながら静かな境内を歩いていると・・・!!!
天草では「天草・島原の乱」という記載が多い「島原・天草の乱」。旬の魚がいっぱいのった海鮮丼に本場の「くまモン」、二人乗り電気自動車や歴史ある石橋など、天草のぶらり旅は出会いと発見の連続!