Balades
Nagasaki
2024.4.24
江戸時代、現在の長崎市の中心部は江戸幕府の直轄地(天領)でしたが、深堀地域をはじめ長崎港口にある神ノ島、香焼島、伊王島、高島および外海の樫山、黒崎、出津などは佐賀藩深堀鍋島家が領していました。佐賀藩は大村藩よりも取り締まりが緩かったこともあり、多くの潜伏キリシタンが信仰を守っていた地区でもあります。
Présentation des circuits浦上地区のラストは、浦上街道沿いの山王神社へ足を延ばしました。被爆クスノキや被爆して1本になった二の鳥居などが有名ですが、その昔、豊臣秀吉の時代には、キリスト教の弾圧を受けた26人の信徒や聖職者たちが処刑される西坂へと向かう途中に休憩をとった場所とい...
浦上地区には、日本に蒔かれたキリスト教の種が250年の厳しい迫害に堪えて長崎で復活した歴史と原爆が落とされた第二の都市であるという二つの歴史があります。その二つの歴史を紹介した資料館が浦上キリシタン資料館。浦上を訪れたなら、ぜひ足を運んでほしいスポッ...
8月の平和記念式典前日、世界平和を発信する平和公園を訪ねました。それから原爆遺構が数々残る浦上天主堂へ。戦争や宗教弾圧の無い平和な日々のありがたさを改めて感じながら、さんさんと輝く太陽の下を歩きました。
隣人愛による恒久平和を訴え、願い続けた永井隆博士は、潜伏キリシタンの末裔である妻と出会ったことで自らもカトリックとなりました。今回訪れた浦上地区の山里小学校は原爆遺構が残る他、永井隆作詞の「あの子」を今も歌い継いでいます。
外海の出津集落は、潜伏キリシタンゆかりの地であり、明治初期に赴任したフランス人のド・ロ神父が信徒たちの暮らしを助けるために生涯をかけてさまざまな貢献をした地でもあります。また、作家・遠藤周作の代表作「沈黙」の舞台としても知られています。
バスチャンは伝説の日本人伝道士で、外海や浦上や五島の人々が日繰りや予言などを残した人物として語り伝えられている人物です。今回は、バスチャンが役人に見つからないように隠れていたと言われる屋敷跡へ足をのばしてみました。蒸し暑い夏の日、森の中のひんやり...
明治初期、キリスト教が解禁されたばかりの外海へ赴任し、外海の貧しい人たちを救うために私財はもちろん、全身全霊を傾けたフランス人のド・ロ神父。外海にはド・ロ神父の功績がうかがえるたくさんのスポットがあります。そのスポットをめぐる前に、ド・ロ神父のお...
江戸時代、長崎から遠く陸の孤島と呼ばれた外海には多くのキリシタンが潜伏し、信仰を守り続けました。江戸後期には、新天地を求めて3000人以上もの信徒が五島に移住し、そこからまた各地へ移り住んで行った信徒たちも多く、外海はキリシタンのふるさとと呼ばれてい...
江戸時代、禁教令による厳しい弾圧の中、多くのキリシタンの信仰を支えた日本人司祭トマス次兵衛(別名:金鍔次兵衛)。次兵衛神父が潜伏していた隠れ家として伝承されている場所は外海の山奥の岩洞窟が有名ですが、実は長崎市南部の戸町にも次兵衛神父が隠れ家として...
新型コロナの影響もほぼ無くなり、長崎港には続々と観光船が入港するようになりました。歴史を遡れば、日本初のキリシタン大名によって海外に開かれた長崎港。今回は春風にのって入港した客船を眺めながら、長崎を代表する観光地の一つでもある大浦天主堂と、その周...
長崎市深堀地区にある標高350mの城山の山麓、大籠町(おおごもりまち)にある善長谷教会。高台に建つ教会からの眺望は、遮るものが何ひとつない180度の大海原で、「沈黙」の作者、遠藤周作も愛した風景です。禁教期、樫山の潜伏キリシタンの6家族が旅芸人を装いなが...
前回は天草の海に浮かぶ湯島を紹介しましたが、今回は長崎の中心部から約30分、気軽に行ける伊王島をご紹介。今はリゾートホテルが立ちとても賑やかな島になりましたが、天草や外海、三重、樫山などから移住した潜伏キリシタンが密かに祈りを捧げていた歴史があります。
今回は、世界遺産巡礼のゴールとなる巡礼路35、茂木港から旧茂木街道を歩き、鍋冠山や南山手で長崎の美しい風景を眺めながら、キリスト教史上の奇跡といわれた「信徒発見」の舞台、大浦天主堂をめざします。大浦天主堂は、創建当時は、居留地に住む外国人のために建...
今月も引き続き「キリシタン大名と少年使節の道」をテーマに歩き、今回は巡礼路22「天正遣欧使節、原マルチノのふるさと波佐見を歩く」の約20キロのコースの前半をご紹介。はさみ温泉・湯治楼を出発して、原マルチノの像や歴史資料館を訪ねます。
前回に引き続き「希望を与えた予言の道」をテーマに、長崎市内を歩きます。今回は、伝説の伝導師バスチャンの予言を信じて信仰を守り通した外海のキリシタンの足跡と、外海の太陽と言われるド・ロ神父のが手がけた教会をたどります。世界遺産の構成資産はもちろん、...
前回に引き続き「希望を与えた予言の道」をテーマに、長崎市内を歩きます。今回は、あぐりの丘を出発して、浦上キリシタンが聖なる山として崇拝した「赤岳」を望む三重地区をめざして歩きました。その途中には、2011年に発見された垣内のキリシタン墓地にも立ち寄り...
前回に引き続き「希望を与えた予言の道」をテーマに、長崎市内を歩きます。今回は、平和公園を出発して、浦上キリシタンが禁教期に巡礼地としていた岩屋山に登り、式見ダムを経由して、ゴールのあぐりの丘をめざします。
10月は「希望を与えた予言の道」をテーマに、長崎市内を歩きます。今回は、岬の教会があった旧県庁舎跡地をスタートし、長崎奉行所跡で山のサンタマリア教会があったという長崎歴史文化博物館、西坂公園などを訪ねたあと、日本二十六聖人殉教者が歩いた浦上街道を歩...
今回登った岩屋山(いわやさん)は、長崎市北西部に位置する標高475.2mの山で、古くから信仰の山として崇められ、長崎七高山にも数えられています。また、禁教期には、「三度、岩屋山に登れば樫山(赤岳)に一度巡礼したことになる。三度、樫山に巡礼すれば一度ロー...
長崎市のキリシタンの聖地のひとつ、浦上地区。布教から繁栄、弾圧、そして迫害による追放からの帰還、さらには原爆による被害など、浦上は度重なる苦難を受けながらも、信仰を支えに見事に復興を遂げました。今回は、そんな浦上の歴史を今に伝える2つの資料館をた...
1570年頃になると、古賀周辺は島原藩有馬氏の所領となり、古賀村にあった神社仏閣はなくなり、天主堂とキリスト教伝道所が建てられ、領民はこぞってキリシタンになっていきました。今回は、かつての佐嘉藩領(佐賀藩領)と天領古賀村の境を出発し、長崎街道を通って...
1612年幕府の直轄領における禁教令以来、松倉豊後守重政が島原・古賀を支配下においてからは、徹底したキリシタン弾圧が行われました。古賀のキリシタンたちは捕らえられ、厳しい拷問を受け続けてもそれに耐え、殉教者たちは信仰を守り通して帰天しました。今回は、...
1571年、長崎港が開港されると長崎もキリスト教が栄え、宣教を推進する島原の有馬氏の領地だった古賀・矢上など東長崎地区でも、神社や仏閣が焼き払われ、領主の庇護を受けてキリスト教徒は増加しました。しかし、禁教期に入ると多数の殉教者が出た場所でもあります...
1858年、フランス南部のルルドの洞窟で、羊飼いの少女・ベルナデッタの前に聖母マリアが現れ、お告げどおりに土を掘ると清水が湧き出し、その水で難病などが治ったという奇跡が起こりました。その後、世界各地でこのルルドを模倣し、聖母マリア像を収めた「ルルド」...
浦上キリシタンの殉教の歴史を語る道標であり、信仰の遺産でもある十字架山は、1881年、当時の浦上教会のプトー神父と流配から帰って来た信徒たちが、絵踏みをしたことを罪として償い、そして信仰を表明できることに感謝し、当地の丘を購入して築造された聖地です。...
今年のぶらり旅のテーマは「聖地巡礼」。キリシタンの殉教の歴史が残る長崎県にはカトリックの聖地と呼ばれているスポットがたくさんあります。今回はその中から日本二十六聖人とゆかりのある本原教会堂とその裏手に隣接する聖地「一本木山」を訪ねます。
約450年前のキリスト教の繁栄期、長崎市内にはいくつもの教会が建てられていました。今回はそんな長崎の歴史の一端を感じる眼鏡橋周辺を歩いた後、明治期に創建され、原爆によって破壊されるも見事に復活した中町教会堂を訪ねます。中町教会堂には聖トマス西と15殉教...
先月は日本二十六聖人が最後に歩いた時津港から西坂公園までの道のりを4回にわたってご紹介しました。そこで今年第1回目のぶらり旅は、ライトアップがきれいな冬の大浦天主堂を訪ねてみました。大浦天主堂は、正式には、「日本二十六聖殉教者聖堂」と言い、1862年...
1597年2月5日(慶長元年12月19日)の早朝、時津港に上陸した26人は、ひどい霜の中、3里(約12キロ)の浦上街道を歩き午前10時頃西坂の丘に到着したといわれています。今回は銭座町から西坂まで、26人が最後にたどった道を歩いて、殉教者たちの強い思いを感じてみます。
日本二十六聖人が歩いた時津港から西坂までの約12キロの行程をたどる今月のぶらり旅。26人は早朝から歩き出し、現在の山王神社周辺で休憩をとったといわれています。当時、浦上街道の宿場町であった平野宿あたりから坂本国際墓地までの旧道はアップダウンのある細い...
時津から浦上を通り長崎まで続く、長崎街道の脇街道と言われる浦上街道(別名:時津街道)。江戸時代の中頃まで大いに利用され、様々な人々が往来しました。なかでも最も有名なのが二十六聖人です。当時、時津村から浦上村を通って長崎村西坂までの距離は3里(約12km...
禁教令により宣教師たちが全て国外に追放されたあと、外海地方ではバスチャンという日本人伝道者が、厳しい取締りの中、追っ手から逃れながら、潜伏キリシタンたちを指導したといわれています。現在、牧野地区の山中にはバスチャンの隠れ家をイメージした建物が建...
明治時代になってキリスト教が黙認されるようになると、外海の大野地区にいた潜伏キリシタンもカトリックに復帰しました。1879年、外海地区に着任したド・ロ神父は、26戸の信者と力を合わせ、1893年に大野教会堂を完成させました。小さいながらも、現地の石を積み...
西彼杵半島中部の外海地区は、出津(しつ)や黒崎などを中心に、禁教後も信仰を守る潜伏キリシタンが多くいました。出津に近い大野地区には各地から潜伏キリシタンが移り住んだと言われています。今回は、大野教会堂の駐車場から近年整備された石段を登って大野教会...
1614年に禁教令が出されて以降、キリシタンへの取り締まりはいっそう厳しさを増しましたが、外海地方のキリシタンの多くは潜伏して信仰を守り続けました。その中でも黒崎地区に住む潜伏キリシタンたちは、枯松といわれる山の中に集まり、代々オラショを伝承してき...
禁教期、外海の大野集落の潜伏キリシタンは、表向きは仏教寺院に所属し、さらに集落内にある大野神社、門神社、辻神社の3つの神社の氏子として信仰を守り続けました。今回は、大野集落の東端、大野教会堂から坂道を歩いて登った山の中にある辻(つじ)神社をご紹介し...
禁教期、外海の大野集落の潜伏キリシタンは、表向きは仏教寺院に所属し、さらに集落内にある大野神社、門神社、辻神社の3つの神社の氏子として信仰を守り続けました。今回は、前回の大野神社に引き続き、門(かど)神社をご紹介します。
外海の大野集落一帯では1571年にイエズス会宣教師カブラルらが宣教活動を行い、キリスト教が伝わりました。禁教期になってからも表向きは仏教徒や集落内の神社の氏子となり、神社に自分たちの信仰対象をひそかにまつって拝むことによって信仰を守り続けました。今...
先週から引き続き、38年前に来崎したローマ教皇故ヨハネ・パウロ二世が訪れた場所をたどります。今回は大浦天主堂や、アウシュビッツで若い兵士の身代わりとなって亡くなったコルベ神父ゆかりの本河内教会堂で教皇の思い出にふれました。コルベ神父は1982年10月10...
今回から2週にわたり、38年前に来崎したローマ教皇故ヨハネ・パウロ二世が訪れた場所をたどってみます。“自ら巡礼者として長崎を訪れた”と語った教皇。38年前は長崎空港に1981年2月25日17時過ぎに到着し、翌日夜10時まで滞在されたため、市内のあちこちで記念ミサ...
2019年11月24日に長崎を訪れたローマ教皇フランシスコは、爆心地で平和のメッセージを発信した後、日本二十六聖人殉教地である西坂公園を訪れました。限られた時間の中で、教皇フランシスコがどうしても訪ねたかった場所にはどんな意味が込められているのでしょう...
2019年11月23~26日、ローマ教皇フランシスコが来日し、24日に長崎を訪れました。原爆落下中心地で発した平和のメッセージや3万人が集まったミサなど、記念すべき日となりました。そこで、今回から4週にわたり、ローマ教皇フランシスコが訪れた長崎の地、そして38...
前回は、かつて南蛮船が来航した長崎港から樺島町周辺を散策しましたが、長崎が開港した翌年の1571年、町ができた岬の突端に小聖堂が建てられました。1601年には被昇天の聖母教会堂が完成し、日本のキリスト教の拠点となりました。今回は、岬の教会があったとされる...
長崎港は今から400年以上前、大村純忠によって開港され、南蛮船や唐船が頻繁に来航し、キリスト教をはじめたくさんの海外文化を運び入れた場所です。埋め立てが進み、波止場の位置などは変わってしまいましたが、今も大波止や樺島町付近を歩くと、キリスト教伝来当時...
明治初期、外海に赴任したド・ロ神父は「隣人を自分のように愛しなさい」というキリスト教の教えを実践。深い人類愛で外海の人々のために力を注ぎ、一度も母国へ帰ることなく、1914年(大正3年)に74歳で逝去しました。今回は、出津文化村からド・ロ神父が眠る野道の...
外海地区の中でも、やはり一番の見所はド・ロ神父が赴任して最初に建てた出津教会堂。1882年にド・ロ神父の設計施工で建てられた後、1891年に一部改造、1909年に玄関部を増築し、現在の教会の形が整えられました。100年以上の時を経てもなお美しい佇まいを見せる出津...
明治初頭、潜伏キリシタンの歴史が残る貧しい外海地区の教会に赴任したフランス人のド・ロ神父。外海の人々を救済するため、私財を投げ打って社会福祉事業に貢献したド・ロ神父の存在は、今も「外海の太陽」として地元の人々の心に生き続けています。国選定重要文化...
国選定重要文化的景観にもなっている長崎市外海の石積集落景観は、主に畑作を中心とした集落の景観ですが、出津漁港周辺の漁業を生業とする人たちの集落にも石積みの美しい景観が残っています。今回は外海歴史民俗資料館を訪ねる前に、出津漁港周辺をぶらりと歩いて...
豊臣秀吉の禁教令により、1597年2月5日大阪や京都方面で活動していた宣教師と日本人信徒の計26名が処刑された西坂の丘は、世界的に知られるキリスト教の聖地。長崎駅のすぐ近くにありながら、季節の花が咲く落ち着いた雰囲気の公園は、散歩の途中の休憩スポットにも...
お伊奈は、日本初のキリシタン大名・大村純忠の娘(洗礼名マリナ)で、家臣の浅田家に嫁ぎました。キリシタンの弾圧が激しくなると、浅田氏は大村藩の領地だった戸根に日蓮宗を装った庵をつくりました。お伊奈はそこで宣教師をかくまい、密かに宣教を行ったともいわ...
「キリシタン弾圧」と「原爆」、2つの大きな受難を乗り越えてきた浦上キリシタン。今も平和町界隈を歩くと、その歴史の痕跡が点在しています。2014年5月5日に浦上天主堂からほど近い場所にオープンした「浦上キリシタン資料館」は、浦上の歴史を次の世代に語り次ぐ...
国宝であり世界遺産にもなった大浦天主堂に注目が集まっていますが、実際の信徒の祈りの場は、そのすぐそばにある大浦教会堂。大浦天主堂の聖堂に多くの観光客が訪れ、祈りの場に適さなくなった為、 1975年に大浦の信徒のために建設されました。南山手散策の途中に、...
大浦天主堂は、1865年12月29日に工事が完了し、翌1865年2月19日にジラール神父をはじめ、フランス領事、長崎港内に停泊中のフランス、ロシア、オランダ、イギリス各国の軍艦艦長臨席のもとに盛大な献堂式が行われました。それから154年、世界遺産になって初めての誕...
ポーランド出身のコルベ神父は、昭和5年に長崎に上陸し「聖母の騎士」を創刊。本河内に聖母の騎士修道院を設立しましたが、帰国後、ナチス軍に捕らえられ、アウシュヴィッツ収容所で死刑を宣告された1人の父親の身代わりとなって亡くなりました。今回は「身代わりの...
洋館などが多く残り、国の伝統的建造物群保存地区にも指定されている長崎市の南山手地区。その中でもドンドン坂の上にあるマリア園は、美しい洋館として知られています。プティジャン司教の招きに応じて、フランスから来日した修道院が開設した「長崎センタンファン...
坂道が多い長崎市。高台にある教会堂へは公共交通機関が通っていないところも多く、高齢者にとっては通うのが大変です。稲佐教会堂もそんな教会堂の一つです(車は通行可能)。でもそのぶん、教会堂からの眺めは最高です。
「キリシタン神社」とは、キリシタンを御神体として祀っている神社のことで、日本では、伊豆大島の「おたいね大明神」、外海の「枯松神社」、そして今回ご紹介する淵神社の中にある「桑姫社」などが知られています。淵神社は長崎ロープウェイの駅が隣接しているので...
船で長崎港へ入ると、玄関口で出迎えてくれる純白のマリア像は、信仰の歴史を刻む神ノ島のシンボル。航海の安全を見守る存在でもあり、神ノ島の漁師さんたちは船の中からマリア様に向かって手をあわせるそうです。
その名前の通り、高台に白亜の教会堂が建つ、カトリック集落の神ノ島。今は橋でつながっていますが、昔は船で渡っていました。禁教期には潜伏キリシタンが多く移り住み、殉教の歴史も刻んでいます。また信徒発見後に信仰復活のために活躍した熱心な信徒の足跡も残っ...
幕末に創業を開始した長崎造船所(長崎溶鉄所)は、明治から大正、昭和と巨艦や客船の建造で発展し、一時は長崎市の人口の3分の1以上を三菱の従業員とその家族で占めていました。県内外から人が集まり、その中には当然信徒も多くいたため、現在もりっぱな教会堂が建っ...
大村純忠の領地だった福田浦は、1565年から長崎開港の1570年の間、ポルトガル船が入港し、福田村には修道士や司祭が派遣され、教会堂も建てられるなど、キリスト教が繁栄しました。しかし、1614年の禁教令で長崎に集められた宣教師たちは福田浦からマカオ等へ追放さ...
神浦(こうのうら)地区は、外海で最初にキリスト教が栄えたところ。神浦8代城主、神浦正信は大村家の家臣となり、1571年に受洗。神浦はキリスト教が栄え、教会堂はもちろんレジデンシア(支部修道院)が設置された時期もありました。今回は神浦にかすかに残るキリスト...
外海地区の山間にひっそりと立つ大野教会堂は、世界文化遺産に登録された構成資産の一つ「外海の大野集落」の中にある教会堂。通常は利用されておらず、一年に一度、ミサが行われていますが、世界遺産登録によって観光客は増えているようです。今回は、そんな大野教...
外海とゆかりの深い作家・遠藤周作の遺品・生原稿・蔵書等に出会える長崎市遠藤周作文学館が、遠藤周作生誕95周年を記念して2018年7月に全館リニューアルし、旧喫茶スペースも「思索空間アンシャンテ」として新たにオープン。さっそく訪ねてみました。
外海地区は、昔は交通の便が悪かったため「陸の孤島」と呼ばれていました。そのため役人の目が届きにくく、禁教期はキリシタンの潜伏地となりました。特に、黒崎地区は潜伏キリシタンの歴史が色濃く残る場所。2017年3月には、地元のキリシタンの歴史を公開するための...
長崎市の西町小教区は、1959年に浦上小教区から分離した800人の信徒で発足。現在は扇型の美しい教会堂が建てられています。一方、滑石小教区は滑石団地の開設に伴い1970年に設立され、現在の二つの塔屋、双塔を持つ教会堂は2008年に建てられました。どちらも子どもた...
前回から引き続き長崎港沖の高島をぶらり。高島のカトリックの先祖は、宝暦年間に外海の樫山地区から、迫害を逃れて移住した潜伏キリシタンといわれています。その後、炭鉱の発展とともに信徒数も増加しましたが、1987年の閉山に伴い激減。2004年から馬込小教区の巡...
長崎港沖に浮かぶ高島は、世界遺産に登録された軍艦島と同じようにかつては炭鉱の島として栄え、グラバーが炭鉱開発のため邸宅を建てた歴史もあります。現在は、高島炭鉱資料館でその歴史をしのぶことができますが、なんとその展示品の中に教会にゆかりのあるものを...
今から73年前、原爆が長崎に投下。「東洋一の聖堂」と称された浦上天主堂は無残にも破壊され、天主堂内にいた神父と信徒は即死、浦上地区に住んでいた約1万2000人の信徒のうち、約8500人が原爆の犠牲になりました。今も原爆の爪痕を残す浦上天主堂を、8月9日の「長崎...
江戸時代、外海などの潜伏キリシタンが移り住んだといわれている伊王島は、現在もカトリックの島として知られる一方で、リゾートの島として生まれ変わりました。2018年春には宿泊施設がさらにリニューアル、夜のアトラクションなども加わり注目を集めています。今回...
毎年、旧正月の時期は、長崎市ではランタンフェスティバルが開催されます。出島の表門橋の完成で、その周辺を歩かれる方も多いことでしょう。今回は、かつてミゼリコルディアがあったフロイス通りから出島まで、キリスト教繁栄の歴史を物語る場所を歩いて見ましょう。
佐世保市の中心を通る広い国道に面し、奇抜なデザインが目を引く俵町教会堂。教会堂の隣には幼稚園、近くには地域密着型の俵町商店街という賑やかな環境にあり、冬はイルミネーションでさらに注目を集めます。
バスチャンゆかりの神山として潜伏キリシタンに崇拝されていた赤岳のふもとにある樫山地区。江戸時代の樫山は、大村藩の西樫山と佐賀藩(深堀領)の東樫山に分かれ、比較的取り締まりが緩やかだった東樫山には多くのキリシタンが潜伏しました。
8月の原爆記念日を前に、平和祈念館として開放されている城山小学校とその周辺を訪ねてみました。
被爆当時この一帯はすべて焼け野原となりましたが、その後見事に復興を遂げました。このエリアにある城山教会堂は、市内屈指の美しい教会で、信徒数も2500人...
赤岳は長崎市樫山町にある、赤い岩肌が特徴の山。昔からバスチャンの椿があるキリシタンの聖地とされ、赤岳に三度お参りするとローマにお参りしたことになるという言い伝えもあった場所です。その赤岳を望む新長崎漁港付近に行ってみました。
5月下旬から6月上旬まで「ながさき紫陽花まつり」が行われている中島川界隈。中島川を上流に向かってぶらぶら歩いていると、神社と隣同士の教会堂をはじめ、このエリアならではの長崎らしいスポットに出合えます。
長崎を代表する観光スポット・眼鏡橋が架かる中島川界隈にもキリシタンゆかりの場所が残っています。5月下旬から6月初旬にかけて開催される「ながさき紫陽花まつり」を見ながら、ぶらりと歩きましょう。
先週訪ねた東望地区から約3キロ離れた古賀地区も、かつてはキリスト教が盛んだったところ。ルイス・フロイスの「日本史」には、1593年頃には全住民がキリシタンであったと書かれています。
長崎市の東長崎地区は、江戸から陸路で長崎に入るときの玄関口にあたる宿場町として栄えました。
また、1570年頃にはキリシタン大名、有馬氏の保護を受けてキリスト教が発展。禁教期には殉教者も多く出ています。
前回は、禁教令によって破壊された山のサンタマリア教会跡とトードス・オス・サントス教会堂跡をたずねましたが、今回は長崎に初めて建てられた教会の跡地を訪ねます。
南蛮貿易が栄えた頃の長崎は、市中に多くの教会が建てられ、その風景はまさに小さなローマのようだったと記録に残っています。禁教期に全てが壊され、今は跡地に碑が立つのみですが、その場所を訪ねると、当時の長崎に思いを馳せることができます。
長崎駅から少し歩くと見えてくる白亜の中町教会堂。ステンドグラスが美しいことでも知られています。聖トマス西と15殉教者に捧げられた教会で、敷地内には16人の記念碑が立てられています。
みなさんもよくご存じの長崎市西坂公園にある日本二十六聖人殉教記念碑。今回は、その裏側にある日本二十六聖人記念館を訪ねてみました。日本有数のキリシタン資料館で、殉教者ゆかりの品を中心に、貴重な資料が展示されています。
伊王島(いおうじま)にある大明寺(だいみょうじ)教会堂から小さな橋をわたって沖之島(おきのしま)の馬込(まごめ)教会堂へ。海を見下ろす丘に建つ白い聖堂は人々の暮らしを見守るように、優しくそして力強く青空にそびえていました。
深堀(ふかほり)から香焼(こうやぎ)に向かい、香焼教会堂を訪れたあとは伊王島(いおうじま)大橋を渡って伊王島へ。迫害を逃れてこの地に移住してきた外海(そとめ)のキリシタンの歴史を感じながら大明寺(だいみょうじ)教会堂を訪れました。
深堀(ふかほり)教会堂、深堀陣屋跡のアコウの木を訪ねたあとは、美しい水路に導かれるように深堀のまちをぶらり。どこをどう歩いてきたのかは定かではないけれど、たどりついたのは由緒ある菩提寺(ぼだいじ)でした。
善長谷(ぜんちょうだに)教会堂から向かったのは城下町のたたずまいがのこる深堀(ふかほり)地区。深堀神社、武家屋敷跡、風情ある通りを歩いて丘の上に建つ深堀教会堂をめざします。
小ヶ倉(こがくら)教会堂からかつて深堀(ふかほり)氏の山城があった丘に建つ善長谷(ぜんちょうだに)教会堂へ。その歴史にふれ、絶景を楽しみ、神聖な空気に包まれたルルドを訪れました。
うっそうとした竹林を抜けてたどり着いたのは、外海(そとめ)黒崎(くろさき)村のキリシタンが移住した集落にある大山(おおやま)教会堂。そこからさらに車を走らせ、住宅地にあるモダンな小ヶ倉(こがくら)教会堂を訪れました。
浦上(うらかみ)崩れが起きるたびに多くの殉教者を出した三ツ山(みつやま)地区。潜伏キリシタンの歴史が息づく山間の地を訪れたあと、長崎(ながさき)市のベッドタウンにある長与(ながよ)教会堂をめざします。
時津(とぎつ)町の日本二十六聖人上陸の地から鷹島(たかしま)殉教地へ。さらに長与(ながよ)町を通って長崎(ながさき)市川平(かわびら)町の「千茶ノ木橋(ちちゃのきはし)」下の難河原(なんごら)殉教地を訪れました。
鉄工所の頑丈な建物を生かしてつくられた時津(とぎつ)教会堂から、長崎(ながさき)空港までの定期便が就航している時津港へ。波穏やかな大村(おおむら)湾を眺めながら日本二十六聖人がたどった殉教の道を改めて心に刻みました。
長崎(ながさき)開港時の長崎領主で、主君大村純忠(おおむらすみただ)とともに横瀬浦(よこせうら)で洗礼を受けた長崎甚左衛門純景(ながさきじんざえもんすみかげ)。彼はなぜこの地で亡くなったのだろうか。その数奇な人生に想いを馳せながら墓地を訪れました。
遠藤周作(えんどうしゅうさく)文学館から車を走らせ、映画「母と暮らせば」のロケが行われた黒崎(くろさき)教会へ。そこから外海(そとめ)総合公園の上にある枯松(かれまつ)神社に向かいました。途中にあった祈りの岩がとても印象的でした。
野道(のみち)共同墓地から道の駅に立ち寄って「ド・ロさまそうめん」を購入。文学館で遠藤周作(えんどうしゅうさく)の足跡をたどり、しばし時間を忘れて角力灘(すもうなだ)の素晴らしい景色を堪能したのでした。
バスチャン屋敷跡から車で南下して野道(のみち)共同墓地へ。約10年をかけて造られた急斜面の墓地の一角に眠るド・ロ神父。地元の自然石を使用した階段を登って大きな十字架のある場所まで向かいます。
大野(おおの)教会堂から駐車場に戻って車に乗り、ド・ロ神父がつくった大平(おおだいら)作業場跡へ。さらに静かな山林にひっそりと建てられたバスチャン屋敷跡を訪れます。
国道から少し入ったところにある専用駐車場に車を止め、階段を登っていくと、
木造と石造り、日本と西洋が混在した素朴な教会堂が見えてくる。それがド・ロ神父が私財を投じ、信徒とともに建てた大野(おおの)教会堂。
ド・ロ神父記念館から旧出津(しつ)救助院、長崎(ながさき)市外海(そとめ)歴史民俗資料館へ。外海地方の人々を救済したド・ロ神父の偉業や、かくれキリシタンの歴史に出会います。
緑豊かな山あいにあって圧倒的な存在感を放つ出津(しつ)教会堂をあとに、丘陵地帯に設けられた歴史の道を歩いてド・ロ神父記念館へ。神父の足跡を訪ねます。
専用駐車場の整備や標識の設置など、訪れる人々を迎える体制が進む長崎市外海(そとめ)町。歴史ある石積み文化にふれながら、まず出津(しつ)教会堂を訪れました。
岳(たけ)教会堂をあとにして最後の目的地、柿泊(かきどまり)のキリシタン墓碑へ。目印となる神社が見つからず、交番で場所を教えてもらい行ってはみたものの、結局キリシタン墓碑は見つからず断念したのでした。
神ノ島(かみのしま)教会堂から北上して次の目的地へ。長崎が開港する前の1565年にポルトガル船が入港した福田(ふくだ)方面に向かい、二つの小さな教会堂を訪れました。
木鉢(きばち)教会堂から海沿いに車を走らせて神ノ島(かみのしま)教会堂へ。教会下の岩の上には航行する船舶の安全を見守る「岬の聖母」の姿がありました。
造船のまちに建つ飽ノ浦(あくのうら)教会堂から見えるのは世界遺産に登録されたクレーン。建造中の大型客船を左手に眺めながら小瀬戸(こせど)町の小高い丘に建つ木鉢(きばち)教会堂を訪れました。
淵(ふち)神社から稲佐(いなさ)教会堂へ。坂のまちならではの風景を楽しみ、昔ながらの商店街を歩き、心なごむひとときを過ごしました。
キリシタン大名大友宗麟(おおともそうりん)の孫娘をまつっている桑姫(くわひめ)神社。桑を植えて蚕を飼い、地元の女性たちに糸の紡ぎ方を教えたという一人の女性の物語が息づいています。
数多くのキリスト教関連遺跡がある長崎市。そのなかでも珍しいのがキリシタンをまつった神社。今回はその桑姫(くわひめ)様ゆかりの淵(ふち)神社を訪れました。
聖コルベ記念館を出て、聖母の騎士学園の横の坂道を上っていくと、緑に囲まれた本河内(ほんごうち)ルルドにたどりつく。ここは教皇ヨハネ・パウロ2世が訪れたバチカン指定公式巡礼地である。
1986年(昭和61年)、コルベ神父が聖人に列せられたのを記念に作られた聖コルベ記念館。人間愛にあふれたこの空間で偉大なる神父の足跡をたどります。
長崎市本河内(ほんごうち)の番所(ばんしょ)バス停から本河内教会、聖コルベ記念館へ。彦山(ひこさん)の斜面につくられた施設だけに気合いを入れて階段を上ります。
浦上(うらかみ)天主堂の惨状、原子野と化した長崎の街、熱線や爆風、放射能による被害・・・。小学生の頃の平和学習を思い出しながらあらためて被爆の実相にふれました。
平和公園から原爆落下中心地を訪れ、長崎原爆資料館へ。原爆の凄惨(せいさん)さと平和の尊さを実感しながら祈りのゾーンをめぐります。
赤城(あかぎ)墓地から見える浦上(うらかみ)教会を訪れ、平和町商店街を通って平和公園へ。その途中でおいしいコーヒーが味わえる喫茶店を見つけました。
山里(やまざと)中学校の上にある赤城(あかぎ)墓地。十字架をあしらった墓石が並ぶ高台からは凛(りん)としてたたずむ浦上(うらかみ)教会が見えます。教会の方角を向いた十字架は信徒たちの永遠なる祈りのあかしなのかもしれません。
浦上(うらかみ)養育院を訪れたあと、こうらんばキリシタン墓地へ。その広大な敷地には浦上の人々のために愛をささげた岩永(いわなが)マキ、高木仙右衛門(たかぎせんえもん)の墓がありました。
十字架山(じゅうじかやま)の山頂から坂道を下りて大通りを歩き、聖フランシスコ病院前バス停の手前から路地に入り、聖ヨゼフ堂跡に向かいます。
一本木山(いっぽんぎやま)から大通りに出て平の下バス停に向かい、秘密教会跡を訪れたあとは坂道を上って十字架山(じゅうじかやま)をめざします。
少し汗ばんだ肌にひんやりとした森の空気を感じながら山頂へ。最後のレリーフのそばには、木々の緑に抱かれるように十字架にかけられたキリスト像が建っていました。
久しぶりに路線バスに乗って三原(みはら)地区へ。このあたりは斜面地に家々が建ち並ぶ長崎らしいまちなみが広がっています。今回は、信徒さんの多くが浦上(うらかみ)四番崩れの生存者の子孫の方という本原(もとはら)教会堂を訪れました。
ひとつ道を間違えるとこんなことに! 目の前に立ちふさがる急な坂道を上り、息を切らしながら目的地のマリア園へ。
大浦天主堂を訪れる観光客が多くなったことから、1975年、信徒の祈りの場として建てられた大浦教会。静かにドアを開けて、さぁ堂内へ。
キリスト教禁教下、秘密の仮聖堂で神学生の教育を行ったという旧大司教館、そして禁教令撤廃後、日本人聖職者を養成するために建てられた旧羅典(らてん)神学校。大浦天主堂に隣接する歴史ある二つの建物へ。
2015年は、世界宗教史上の奇跡ともいわれる「信徒発見」から150周年という記念すべき年。今回はその舞台となった大浦天主堂を訪ねるぶらり旅。歴史を感じながら階段を一歩一歩上っていきます。
路地や坂道が多い長崎は、歩くコースによっていろいろな風景に出会うことができます。定番コースもいいけれど、今回は斜行エレベーターにのって大浦(おおうら)天主堂の「背中」を見てみましょう。
ガウディのスタイルを取り入れた聖フィリッポ教会の造形美を堪能したあとは、かつてハンセン病の病院とフランシスコ会の教会があった本蓮寺へ。勝海舟がここに滞在し、ある娘と恋に落ちたという話も残っていますよ。
これまで何度も訪れている日本二十六聖人殉教地。記念碑の素晴らしさは皆さんもよくご存知だと思いますが、今回はその裏にあるもうひとつの作品、そして記念館の展示品に目を奪われてしまったのでした。
一本柱鳥居や被爆クスノキで知られる山王神社は、その昔は子どもたちの遊び場。秋には浦上くんちが行われ、地元の人たちで賑わいます。そこから5分ほど歩くと異国情緒あふれる坂本国際墓地。さて、誰のお墓があるのでしょうか。
久しぶりに訪れた母校、坂本小学校。小学生の頃は知らなかった共同墓地を訪れ、キリシタン墓碑を探すこと40分。あきらめて引き返そうとしたとき、ついに発見!昔と変わらない地元の人とのふれあいも楽しいね。
浦上教会から少し足を伸ばせば、永井隆博士ゆかりの如己堂や、あまり知られていない秘密教会跡など、興味深いスポットもあります。青春時代を過ごしたまちで時の移り変わりを感じながら、ちょっとしみじみとした散策でした。
知っていそうで意外と知らない浦上教会のこと。ゆっくり時間をかけてめぐれば、初めて出会う不思議なものもいろいろ。何よりも心がおだやかになる・・・その澄み切った静かな空間も魅力です。