Histoire d'Oratio (3)
Ouverture du Japon et « découverte des chrétiens », époque de la libération et de la résurrection
1854年、日本はアメリカの強い要求により開国し、1859年には函館(はこだて)、神奈川(かながわ)、長崎(ながさき)の港が開かれた。1862年、ローマ教皇は1597年に長崎で殉教した26人を列聖し、長崎に来た宣教師たちによって1864年12月、大浦(おおうら)天主堂(正式名/日本二十六聖殉教者聖堂)が建設された。
1865年3月17日、浦上(うらかみ)村の潜伏キリシタン十数名が大浦天主堂を訪れ、堂内にいたプティジャン神父に信仰を告白した。約2世紀半にわたる禁教、弾圧下に起きたこの劇的な事件は「信徒発見」と呼ばれ、弾圧によって日本に信徒がいなくなったと考えていたヨーロッパの人々に強い衝撃を与えた。
1873年、明治政府はキリスト教禁止の高札を撤廃。潜伏していた信徒たちがカトリックに復帰する一方、各地の集落では日本と西洋の技術と材料を組み合わせた多様なデザインの教会堂が建築された。
多くの潜伏キリシタンがカトリックへと復帰したが、カトリックに復帰せず、潜伏時代の独自の信仰儀礼を守り伝える人々が長崎地方に今なお存在しており、彼らは「かくれキリシタン」と呼ばれている。
(挿画:庄司好孝)
Sites inscrits relatifs à cette époque
Chronologie
1854 |
日米和親条約調印。開国 |
1859 |
長崎港開港 |
1865 |
大浦天主堂献堂 |
1865 |
信徒発見 |
1867 |
浦上4番崩れ |
1873 |
明治政府によりキリスト教禁止の高札を取り除かれる |
Pour en savoir plus
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開国を機に始まったカトリックの宣教と新たな教会堂の建設
フランス革命やナポレオン戦争による混乱からカトリック復興の気運が高まるなか、ローマ教皇庁は、1838年、当時ベトナムや中国で活動を行っていたパリ外国宣教会に日本での再宣教を委託。1844年から沖縄(おきなわ)に宣教師が滞在し、布教の機会をうかがっていた。
19世紀になって産業革命とともに西洋列強による世界進出が拡大し、1854年、日本はアメリカの強い要求により開国。1858年には西洋諸国と通商条約を締結し、1859年、函館(はこだて)、神奈川(かながわ)、長崎の港が開かれた。これによりパリ外国宣教会のジラール神父がフランス公使の通訳として来日。1863年にはフューレ神父、プティジャン神父が相次いで横浜(よこはま)から長崎に入った。また1862年、開国をきっかけにローマ教皇ピウス10世は1597年に長崎で殉教した26人を列聖。このようにして長崎での再宣教と、新たな教会堂建設計画が始まったのである。
(挿画:庄司好孝)
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2世紀半にわたる禁教下に起きた劇的な事件『信徒発見』
長崎にやってきた宣教師たちは、1864年12月、長崎港に面した居留地の大浦(おおうら)に教会堂を建設した。大浦天主堂と呼ばれるこの教会堂は正式には「日本二十六聖人殉教者聖堂」と名づけられ、殉教地に向けて建てられた。当時はまだ日本人への宣教は認められていなかったため、宣教師たちは居留地に住む西洋人のために活動を行っていたが、彼らの再来日の最大の目的は長崎の潜伏キリシタンを探しだすことだったという。
1865年3月17日、浦上村のキリシタン十数名が大浦天主堂を訪れ、堂内にいたプティジャン神父に信仰を告白した。神父の報告によると、そのとき信徒の女性が神父のそばに近寄り、「我らのむね、あなたのむねと同じ」「サンタ・マリアの御像はどこ」と言ったと記されている。2世紀半にもおよぶ禁教、弾圧下で起こったこの劇的な事件は『信徒発見』と呼ばれ、弾圧によって日本には信徒がいなくなったと考えていたヨーロッパの人々に強い衝撃を与えた。
この出来事の直後から大浦天主堂には長崎各地のキリシタン集落から指導者が相次いで訪れ、宣教師の指導を受けてそれぞれの集落へ伝えるなど、カトリックへの組織的な復帰が図られたのである。
(挿画:庄司好孝)
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禁教令の撤廃、そしてカトリックへの復帰
『信徒発見』という潜伏キリシタンと宣教師との出会いは、その後の歴史に大きな影響を及ぼすこととなった。当時禁教が続いていた日本では、再び信徒に対する弾圧が強化され、それは1868年の明治維新後も続いた。信仰を告白した浦上村のキリシタンのほか、五島列島の集落などでも弾圧が相次ぎ、浦上村のキリシタン約3400人が西国20藩に分かれて配流され、神道への改宗を強制された。
しかし、信徒への弾圧に対する西洋諸国の強い抗議により、1873年、明治政府はキリスト教禁止の高札を撤廃した。これにより潜伏していた信徒たちは改めて宣教師から洗礼を受けてカトリックに復帰。これをきっかけに宣教師たちは潜伏キリシタンの指導者である水方たちを再教育し、彼らの住まいを教会堂の代わりに祈りの場とした。その後、各地の集落では信徒の協力のもと、素朴で多様なデザインの教会堂が次々と建設された。
(挿画:庄司好孝)
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日本と西洋が融合した多様な教会堂の誕生
初期の教会堂は、ヨーロッパ人宣教師の指導のもと日本の大工たちによって建設されたが、やがて自らの力と地域の人々の協力によって日本と西洋の技術や材料を組み合わせた素朴ながらも優れた教会堂がつくられた。外観はヨーロッパの形式やデザインを基本とし、内部は日本の伝統的な民家建築の特色を活かして日本的な習慣に合うように設計されており、人々は入口で靴を脱ぎ、床や畳に座って祈りを捧(ささ)げた。
各地に潜伏していた多くのキリシタンがカトリックへと復帰する一方で、カトリックに復帰せず、潜伏時代の独自の信仰儀礼を守り伝える人々が今なお長崎地方に存在しており、彼らは「かくれキリシタン」と呼ばれている。
(挿画:庄司好孝)