おらしょ物語 (2)
禁教と密かな継承の時代
厳しい弾圧のなか、17世紀中頃までは全国各地に潜伏キリシタンがいたが、17世紀後期に発覚した郡(こおり)崩れ、豊後(ぶんご)崩れ、濃尾(のうび)崩れなどの大規模なキリシタン摘発事件により、潜伏キリシタンは主に長崎地方にのこるのみとなった。
潜伏キリシタンは、指導者のもとで日繰りによって祝い日や忌み日を守り、洗礼や葬送などの儀礼を行った。教会堂がないなかで彼らはひそかに「帳方(ちょうかた)」や「水方(みずかた)」などと呼ばれる指導者の家に集まって祈りや信仰儀式を行い、先祖の殉教地や墓地など彼らにとっての聖地を崇拝した。
やがてその信仰は日本的な様相を帯びるようになり、16世紀に伝わったラテン語、ポルトガル語の祈りの言葉「オラショ」はその発音がなまり、日本の民間信仰の影響を受けて変化しながらも先祖代々の儀式として受け継がれた。
18世紀末、五島(ごとう)藩の要請で大村(おおむら)藩外海(そとめ)地方の農民たちが五島列島へ移住した。人々は家族単位で狭い斜面を開墾して小さな集落をつくっていった。こうして五島列島に潜伏キリシタンの集落が形成されたのである。
(挿画:庄司好孝)
この時代とかかわりのある登録資産
もっと詳しく知りたい
-
地域社会の伝統と結びついた日本的な信仰形態
厳しい弾圧のなか、17世紀中頃までは全国各地に潜伏キリシタンがいたが、17世紀後期に発覚した郡(こおり)崩れ、豊後(ぶんご)崩れ、濃尾(のうび)崩れなどの大規模なキリシタン摘発事件により、潜伏キリシタンは主に長崎地方にのこるのみとなった。
潜伏キリシタンは、指導者のもとで日繰りによって祝い日や忌み日を守り、洗礼や葬送などの儀礼を行った。教会堂がないなかで彼らはひそかに「帳方(ちょうかた)」や「水方(みずかた)」などと呼ばれる指導者の家に集まって祈りや信仰儀式を行い、先祖の殉教地や墓地など彼らにとっての聖地を崇拝した。
彼らはこのようにして自分たちの信仰を維持していたが、その信仰は次第に日本的伝統の影響を受けるようになっていった。16世紀に伝わったラテン語、ポルトガル語の祈りの言葉(オラショ)はその発音がなまり、民間信仰の影響を受けて変化しながらも維持され、先祖代々の儀式として受け継がれた。
(挿画:庄司好孝)
-
五島列島に形成された潜伏キリシタンの集落
長崎の外海(そとめ)地方では、1630年代より日本人伝道士「バスチャン」という人物の予言が伝えられていた。そのひとつが「7代たてば神父が現れ、信仰を公にする日が来る」というものであり、潜伏キリシタンたちはこれを「バスチャンの予言」と呼んでいた。また、この地方には告解(こっかい)の手引書や、潜伏キリシタンが旧約聖書の影響を強く受けて作成した教理書「天地始之事(てんちはじまりのこと)」が伝存している。これらはキリスト教と日本文化が相互に影響をおよぼしたことを示すと同時に、幾世代にもわたってキリスト教が継続して信仰されてきたことを物語っている。
18世紀末、五島(ごとう)藩の要請により大村藩の外海地方の農民たちは五島列島へ移住した。その多くは潜伏キリシタンであり、この移住により「天地始之事」も五島列島へと伝わった。移住した人々は、家族単位で狭あいな斜面を開墾し、五島各地に潜伏キリシタンの集落を形成していった。
このように長崎地方の潜伏キリシタンの組織は、キリスト教の伝来初期から宣教師に密接な指導を受け、組織的に信仰を継承する条件が整っていたことを示している。
(挿画:庄司好孝)