開国と『信徒発見』・解禁と復帰の時代に登録されている登録資産の一覧です。
19世紀の開国にともない来日したパリ外国宣教会のプティジャン神父は、1865年3月の大浦天主堂における「信徒発見」の後、同年9月に外海地方に赴き、多くの潜伏キリシタンと接触した。【登録資産グループ/外海の出津集落】
1885年、旧出津救助院の向かい側に建設された木骨煉瓦平屋造りの建物。【登録資産グループ/外海の出津集落】
西彼杵半島西岸の外海地方にある教会堂。大野周辺の26戸の信徒世帯のために出津教会堂の巡回教会として、1893年にド・ロ神父によって建てられたものである。【構成資産グループ/外海の大野集落】
キリスト教解禁直後に﨑津の大工によって最初の木造教会堂が建設されたのち、ハルブ神父の指導のもと、現教会堂が鉄川与助の設計・施工により1934年に建てられた。【登録資産グループ/天草の﨑津集落】
明治時代のキリスト教解禁後、1888年に最初に建てられたカトリック教会堂の跡地。禁教期に信者が祈りを唱えていた﨑津諏訪神社の隣接地に所在。1934年の現﨑津教会への移転までの間、信仰のよりどころとなった。現在は石垣や、昭和30年代に建築された修道院の建物が残っている。
かつては、30戸あまりの信徒がいたが、今は3戸の家で教会を維持している五輪の墓地。墓碑を建てるまでの目印として丸い石を集めて置いている土葬の墓は、古代遺跡のようにも見える。
野首集落に暮らした潜伏キリシタンの指導者(水方)屋敷の跡地です。屋敷では、潜伏キリシタン信仰に基づく、様々な行事が行われていたと考えられています。また、解禁後の1882年には集落で最初の教会堂がここに建てられ、「潜伏」が終わりを迎えました。
解禁後の1881年、舟森集落に最初の教会堂が建立され、「潜伏」は終焉を迎えました。1966年の廃村に伴い教会堂も廃堂となりました。附随していた司祭館は、小値賀本島に移築され、現在もカトリック小値賀教会として利用されています。
この場所は細石流教会堂の跡地です。細石流集落では、解禁後においても立地環境の関係で、すぐには教会堂が建てられませんでした。1920年になって集落を見下ろす山頂付近のこの場所に木造の教会堂が建てられました。1969年に他の教会堂との統廃合により廃堂となり、その後の台風被害により倒壊しました。
上五島地域の潜伏キリシタンの中心的指導者であったドミンゴ森松次郎は1867年に頭ヶ島の白浜に移住し、屋敷を構え「仮の聖堂」とした。
平戸島対岸の南田平集落にある教会堂で、1918年に鉄川与助(てつかわよす…
1885年、宝亀地区そばの京崎地区に18戸の信徒によって最初の仮教会堂が立…
江戸時代、外海のキリシタンが集団移住で最初に住み着いたとされる福江島…
1879年頃に最初の教会堂が建つ。
外海地方の出津、黒崎、池島などから移住…
1879年、外海(そとめ)地方に赴任したド・ロ神父は、地域住民の福祉と生…
ド・ロ神父が造成した出津教会信徒の共同墓地。
伊王島における…
1873年、キリシタン弾圧の禁制がとかれ、自由を得た浦上の信徒たちによっ…
1933年、フランス人宣教師ガルニエ神父が私財を投じて建てたロマネスク様…
世界遺産の全体像や「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の12の構…
島原・天草一揆後、島原半島のキリシタンは途絶えたが、明治35(1902)年…
大村藩から移住してきた潜伏キリシタンは福江島や久賀島、奈留島などに散…
1868年(明治元年)、自らの信仰を告白した久賀島のキリシタンたちが捕え…
信仰が黙認された下五島で、最初の常駐の司祭として孤児からの救済をはじ…
寛政年間の五島藩の依頼による移住よりも早い1776(安永5)年、三井楽村渕…
五島列島司牧のペルー神父は、1891(明治24)年、ローマのバチカンにフラ…
竹松教会、田ノ平教会などを経て、1947(昭和22)年に植松教会ができた。
1958(昭和33)年、植松教会から独立して、1983(昭和58)年に現在の教会…
1853年、岐宿村のキリシタンの1家族が繁敷を開墾し、その後この地にキリシ…