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飢きんや重税に苦しんだ領民が一揆を起こした島原・天草の乱。原城に立てこもった人々の命は88日間の戦いのなかに消えた。かつて日本有数のキリスト教教育の拠点として栄えた有馬の地。そこは信仰がもたらした光と影の舞台。
日本初のキリシタン大名として知られる大村純忠。戦に明け暮れる中で、キリスト教に心動かされていった!?
16世紀末に有馬セミナリヨの画学生によって描かれたとされる銅版画「セビリアの聖母」復刻までのドラマ
天正遣欧少年使節の4人のうち、ただ1人棄教した千々石ミゲルの墓が発見された!?
天正遣欧少年使節としてローマに渡り、大歓迎を受けて帰ってきた4人を待ち受けていたのは辛い現実であった
天草四郎が率いた一揆軍の象徴ともいえる陣中旗。
血痕や刀、槍の跡に戦いの歴史が垣間見える。
南島原市には国内で最多のキリシタン墓碑がある。
キリスト教の考えや精神がその埋葬方法から読み取れる。
南島原市にある半円柱形のキリシタン墓碑。
碑文がローマ字で刻まれ、西暦と元号が併記されている。
島原・天草一揆後、有馬の地には集団移住などで多くの人々が住み着いた。
今伝えたい思いに迫る。
幕府軍によって徹底的に破壊された原城。
この地で育つ「原城トマト」は、荒廃した土地からの復活のあかし。
キリストにならって、自ら尊い犠牲になることを受け入れたキリシタンたちがいた。
今、その意味を考える。
死者の復活を恐れ、徹底的に破壊された原城。しかし一方で、宗教を超えて死を悼む人たちの姿もあった。
原城跡からの出土物の中にはキリスト教関連のものが多い。
死を前に一揆軍は何を思ったのだろうか。
代々島原半島を治めてきた有馬氏がこの地を去っていった。
新たに迎えられた領主は日本の運命を左右していく。
島原・天草一揆では、多くのキリシタンが戦い、
老若男女約2万6千人の命が散っていった。
原城はその舞台である。
織田、豊臣時代に流行した初期の石垣の石積技術が原城跡にみられる。
中世から近世へ、城郭建築の過渡期だった。
互いに「共存」を願うとき、乗り越えなければならない壁がある。
信仰の真理はそれを教えてくれる。
イエズス会は布教を担う若者の育成に力を入れた。
美術、音楽、日本語にラテン語。少年たちは次々と習得した。
高い教養をそなえた日本の4少年がヨーロッパへ旅立った。
異文化交流は少年たちに感動を与えた。
当時の為政者たちに有馬氏はどう関わっていたのか。
日野江城跡から発見された金箔瓦が示唆してくれる。
「己のごとく隣人を愛せよ」。
有名なキリスト教の精神は、有馬の地にも根を降ろしていた。
日野江城跡から出土した中国などの陶磁器類。
それらは、有馬氏が交易で繁栄したことを示している。
戦国時代、領主たちは競ってポルトガル貿易を誘致しようとした。
そしてキリスト教が領内に広まった。