2018.4.25
天草灘の入江にある小さな漁港・﨑津。日本の原風景ともいえる漁師まちの風景に、西洋の教会堂が融合した独特の景観は、訪れる人を魅了し続けています。その美しい景観を高い場所から眺望できるのが、約600段の石段を登ってたどり着くチャペルの鐘展望公園。ちょっと...
2018.4.18
﨑津集落の海岸にある、海に向かって立てられたマリア像。ここを往き来する船人、漁人たちの海の道しるべであり、心の灯となるように建立されました。漁に出る信徒たちは必ず行きと帰りに船から手を合わせるそうです。美しい白亜のマリア様に会いに行って来ました。
2018.4.11
2018年の世界遺産登録を目指す﨑津集落は、ここ数年間のうちにあちこちに新しい施設が誕生。資料館や案内所、駐車場やトイレなども整備され、以前よりも快適に散策ができる環境になっています。今回は、そんな﨑津集落の新しい施設を尋ねてみました。
2018.4.4
口之津からアルメイダ修道士が渡って、1566年に布教が開始された天草。豊臣秀吉から天草支配を任された小西行長の庇護のもとでキリスト教が繁栄し、コレジヨなどもできました。今回は、アルメイダが初めて天草に上陸した河浦町周辺を訪ねてみます。
2017.11.29
キリシタン信仰が盛んだった島原半島には100あまりのキリシタン墓碑が見つかっていますが、その中でも一番美しいとされているのが「まだれいなの墓」。その近くには沖田畷の戦いの前夜に龍造寺隆信が過ごしたという寺中(三会)城跡もあります。まだれいなのお墓参り...
2017.11.22
島原半島にはキリシタン遺跡や殉教地などがたくさんありますが、島原・天草一揆でキリシタンが根絶されたこともあり、現在も教会堂の数は少なく、島原市内にあるのは島原教会堂のみ。別名は「島原半島殉教者記念聖堂」といいます。過去の悲しい歴史を偲びながら、訪...
2017.11.15
1618年より、松倉重政が島原城の築城を開始。4万石の大名としては立派すぎる城であったため、民衆は多大な負担を強いられ、さらには2代目勝家の圧政、キリシタンへの迫害、飢饉も重なり、耐えかねた民衆は1637年の島原・天草一揆を起こしました。その発端となった島...
2017.11.8
禁教期、島原半島での厳しすぎるキリシタン弾圧で、領民から「悪魔」と呼ばれた松倉氏。徳川家光の時代になるとさらに激しさを増し、棄教しない領民への残虐な拷問が繰り返されました。今は静かで落ち着いた城下町の面影を残す島原市内で、刑場跡や殉教地を訪ねてみ...
2017.11.1
1602年、肥後(熊本)出身のキリシタンで武士の結城弥平次は、有馬晴信の招へいで国見の金山城の城主となり、布教活動が行われました。しかし、晴信の子、直純の時代になると弾圧が激しくなり、弥平次は家来や家族と共に追放され、金山城は廃城となります。秋の気配...
2017.5.24
雲仙地獄は、1627年~1631年まで、島原城主・松倉重政がキリシタンを改宗させるために拷問や処刑を行った地。硫黄の匂いと湯けむりに包まれながら、殉教碑が立つ場所を訪ねてみました。
2017.5.17
長崎県を代表する観光地であり、国立公園に指定されている雲仙。その歴史をたどると、1600年代には多くのキリシタンが殉教した聖地でもあります。今回は、南串山町から農道を通って、殉教地がある雲仙の温泉街を訪ねます。
2016.1.20
須崎(すざき)キリシタン墓碑から岩戸山(いわとやま)へ。軽い気持ちで訪れたものの、そこはかつて観音道場があった霊地。「ありがたいやら怖いやら」で登山の途中、いや、山の入口で失礼することになったのでした。
2016.1.13
口之津町(くちのつちょう)の南蛮船来航の地から加津佐町(かづさちょう)に向かい、いつものように(?)あちこち迷いながら目的地へ。それにしてもキリスト教文化の繁栄の陰にいろんなドラマがあったんですね。
2015.12.9
西有家町(にしありえちょう)から南有馬町(みなみありまちょう)に入って原城(はらじょう)跡へ。ずいぶん昔に出場したロードレースのことを思い出しながらめぐった広大な城跡——そこは農業を営む人々の暮らしの場でもあったのです。
2015.11.25
有家(ありえ)キリシタン史跡公園から坂道を下りていくと温泉(おんせん)神社がある。この日はちょうど秋のお祭り。行列をすり抜けてセミナリヨ跡を訪れたのでした。
2014.10.7