おらしょ こころ旅

県北

佐世保市、平戸市、小値賀町、東彼杵郡の登録資産の一覧です。

世界文化遺産

黒島天主堂

平戸島の南東、佐世保港沖に位置する黒島にある教会堂である。【登録資産グループ/黒島の集落】

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春日集落

長崎県平戸島の西岸にある。【登録資産グループ/平戸の聖地と集落】

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安満岳

長崎県平戸島の西岸に位置する標高534mの山である。【登録資産グループ/平戸の聖地と集落】

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中江ノ島

長崎県平戸島北西岸の沖合2kmに位置する長さ400m、幅50mの無人島。【登録資産グループ/平戸の聖地と集落】

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旧野首教会

鉄川与助の設計・施工により、1908年に建設された煉瓦造り(英国積み)の教会堂である。【登録資産グループ/野崎島の集落跡】

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野首集落跡

野崎島の中央に位置し、屋敷跡、耕作地跡、旧野首教会、里道などがのこる。【登録資産グループ/野崎島の集落跡】

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舟森集落跡

野崎島の南端に位置し、屋敷跡、耕作地跡、墓地、瀬戸脇教会跡、里道からなる。【登録資産グループ/野崎島の集落跡】

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本村集落 本村役所跡

禁教期に黒島の行政を担った庄屋屋敷の跡。黒島では毎年正月の宗門改めの際に本村の庄屋屋敷において絵踏が行われていた。

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沖ノ神嶋神社

沖ノ神嶋神社は、中国との主要な航路の守り神として、704年に建てられました。古来より野崎島全体が神道の聖地とされ、五島列島一円の氏子から崇敬されていました。19世紀中頃、外海地域の潜伏キリシタンは、氏子として神道の聖地に移住すればキリシタンと疑われる可能性が低いと考え、野崎島に移住しました。

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沖ノ神嶋神社神官屋敷跡

沖ノ神嶋神社の神官一家が代々暮らした屋敷の跡地です。神社の氏子を装っていた潜伏キリシタンも神事に参加しました。悪天候の際には屋敷に附属する遥拝所を通して神社を拝んでいました。遥拝所の祭壇は、禁教期の1823年につくられたことがわかっています。建物は、神官一家から小値賀町が譲り受けて修復しています。

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潜伏キリシタンの指導者屋敷跡(現在の旧野首教会)

野首集落に暮らした潜伏キリシタンの指導者(帳方)屋敷の跡地です。解禁後しばらく時間を経た1908年には、敷地内東側に3代目となる野首教会(現在の旧野首教会)が建立されました。

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潜伏キリシタンの指導者屋敷跡 (初代野首教会堂)

野首集落に暮らした潜伏キリシタンの指導者(水方)屋敷の跡地です。屋敷では、潜伏キリシタン信仰に基づく、様々な行事が行われていたと考えられています。また、解禁後の1882年には集落で最初の教会堂がここに建てられ、「潜伏」が終わりを迎えました。

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潜伏キリシタンの指導者屋敷跡(舟森集落跡)

舟森集落に暮らした潜伏キリシタンの指導者(水方)屋敷の跡地です。屋敷では、潜伏キリシタン信仰に基づく、様々な行事が行われていたと考えられています。ここに暮らした指導者は、解禁後には伝道師として活動し、舟森集落の潜伏キリシタンの教会への復活を支えました。

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潜伏キリシタンの墓地(舟森集落跡)

外見は仏教徒の墓と変わりませんが、発掘調査により、仏教の極楽浄土のあるとされる西側ではなく、反対向き(人骨の顔の向きが東側)に埋葬されていたことが確認されています。

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瀬戸脇教会堂跡

解禁後の1881年、舟森集落に最初の教会堂が建立され、「潜伏」は終焉を迎えました。1966年の廃村に伴い教会堂も廃堂となりました。附随していた司祭館は、小値賀本島に移築され、現在もカトリック小値賀教会として利用されています。

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丸尾山

春日の棚田の中央にある小さな丘(丸尾山)の頂に、「丸尾様」と呼ばれる石祠がある。春日沖で難破した海難者をまつったと伝えられており、住民から大切な場所とされてきた。

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潜伏キリシタンの墓地(堂山遺跡)

住民が稲荷様としてまつる祠の周辺で発見されたキリシタン時代のものと考えられる墓地で、こぶし大の石が長方形に組まれている。

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興禅寺

1700年代半ばに創建された曹洞宗の寺院。享和3年(1803)には津吉の長泉寺の末寺となるなど篤く信仰されていた。

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仮聖堂跡

大浦天主堂における信徒発見を契機に黒島でも宣教師の指導をうけ、明治5年(1872)に潜伏キリシタン全員が正統なカトリックとして復活を遂げた。その翌年禁教の高札が撤廃されると、日数にあった水方屋敷が仮の聖堂となった。しかし黒島南部の蕨集落の信者たちにとって島の西端にあたる日数へ通うのは難しく、集落内の民家を聖ヨゼフに捧げ、仮の聖堂として使用することになった。

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