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大浦天主堂における信徒発見を契機に黒島でも宣教師の指導をうけ、明治5年(1872)に潜伏キリシタン全員が正統なカトリックとして復活を遂げた。その翌年禁教の高札が撤廃されると、日数にあった水方屋敷が仮の聖堂となった。しかし黒島南部の蕨集落の信者たちにとって島の西端にあたる日数へ通うのは難しく、集落内の民家を聖ヨゼフに捧げ、仮の聖堂として使用することになった。
禁教期初期に描かれた聖画「聖ミカエル図」を密かに所持していた潜伏キリシタンの屋敷跡地。
禁教期に出津集落を管轄した出津代官所と庄屋の屋敷跡があった(旧出津救助院の敷地内)。
大野集落の住民は共同墓地に埋葬していましたが、解禁後に表立ってカトリックの復帰を表明したものは、庄屋や役人に共同墓地への埋葬を認めてもらえず、集落から離れたこの場所に埋葬された。
出津集落には、小田平墓地、菖蒲田墓地、野中墓地、畑杭墓地があり、1862年に絵図により墓地がそれぞれのコミュニティことに作られたことがわかる。
上五島地域の潜伏キリシタンの中心的指導者であったドミンゴ森松次郎は1867年に頭ヶ島の白浜に移住し、屋敷を構え「仮の聖堂」とした。
この場所は細石流教会堂の跡地です。細石流集落では、解禁後においても立地環境の関係で、すぐには教会堂が建てられませんでした。1920年になって集落を見下ろす山頂付近のこの場所に木造の教会堂が建てられました。1969年に他の教会堂との統廃合により廃堂となり、その後の台風被害により倒壊しました。
住民が稲荷様としてまつる祠の周辺で発見されたキリシタン時代のものと考えられる墓地で、こぶし大の石が長方形に組まれている。
解禁後の1881年、舟森集落に最初の教会堂が建立され、「潜伏」は終焉を迎えました。1966年の廃村に伴い教会堂も廃堂となりました。附随していた司祭館は、小値賀本島に移築され、現在もカトリック小値賀教会として利用されています。
外見は仏教徒の墓と変わりませんが、発掘調査により、仏教の極楽浄土のあるとされる西側ではなく、反対向き(人骨の顔の向きが東側)に埋葬されていたことが確認されています。
舟森集落に暮らした潜伏キリシタンの指導者(水方)屋敷の跡地です。屋敷では、潜伏キリシタン信仰に基づく、様々な行事が行われていたと考えられています。ここに暮らした指導者は、解禁後には伝道師として活動し、舟森集落の潜伏キリシタンの教会への復活を支えました。
野首集落に暮らした潜伏キリシタンの指導者(水方)屋敷の跡地です。屋敷では、潜伏キリシタン信仰に基づく、様々な行事が行われていたと考えられています。また、解禁後の1882年には集落で最初の教会堂がここに建てられ、「潜伏」が終わりを迎えました。
野首集落に暮らした潜伏キリシタンの指導者(帳方)屋敷の跡地です。解禁後しばらく時間を経た1908年には、敷地内東側に3代目となる野首教会(現在の旧野首教会)が建立されました。
沖ノ神嶋神社の神官一家が代々暮らした屋敷の跡地です。神社の氏子を装っていた潜伏キリシタンも神事に参加しました。悪天候の際には屋敷に附属する遥拝所を通して神社を拝んでいました。遥拝所の祭壇は、禁教期の1823年につくられたことがわかっています。建物は、神官一家から小値賀町が譲り受けて修復しています。
沖ノ神嶋神社は、中国との主要な航路の守り神として、704年に建てられました。古来より野崎島全体が神道の聖地とされ、五島列島一円の氏子から崇敬されていました。19世紀中頃、外海地域の潜伏キリシタンは、氏子として神道の聖地に移住すればキリシタンと疑われる可能性が低いと考え、野崎島に移住しました。
かつては、30戸あまりの信徒がいたが、今は3戸の家で教会を維持している五輪の墓地。墓碑を建てるまでの目印として丸い石を集めて置いている土葬の墓は、古代遺跡のようにも見える。
頭ヶ島の白浜海岸には縄文時代の遺跡があり、土器や石器の破片が見つかる。(頭ヶ島白浜遺跡)
明治時代のキリスト教解禁後、1888年に最初に建てられたカトリック教会堂の跡地。禁教期に信者が祈りを唱えていた﨑津諏訪神社の隣接地に所在。1934年の現﨑津教会への移転までの間、信仰のよりどころとなった。現在は石垣や、昭和30年代に建築された修道院の建物が残っている。
禁教期に黒島の行政を担った庄屋屋敷の跡。黒島では毎年正月の宗門改めの際に本村の庄屋屋敷において絵踏が行われていた。
キリスト教解禁直後に﨑津の大工によって最初の木造教会堂が建設されたのち、ハルブ神父の指導のもと、現教会堂が鉄川与助の設計・施工により1934年に建てられた。【登録資産グループ/天草の﨑津集落】
大漁、海上安全祈願のため、1647年に創建されたとされ、境内には1685年銘の鳥居が現存するなど、当初の境内の配置が現在ものこっている。【登録資産グループ/天草の﨑津集落】
長崎県島原半島南部の海に突き出た丘陵を利用した城跡である。【登録資産グループ/原城跡】
西彼杵半島西岸の外海地方にある教会堂。大野周辺の26戸の信徒世帯のために出津教会堂の巡回教会として、1893年にド・ロ神父によって建てられたものである。【構成資産グループ/外海の大野集落】
1885年、旧出津救助院の向かい側に建設された木骨煉瓦平屋造りの建物。【登録資産グループ/外海の出津集落】
19世紀の開国にともない来日したパリ外国宣教会のプティジャン神父は、1865年3月の大浦天主堂における「信徒発見」の後、同年9月に外海地方に赴き、多くの潜伏キリシタンと接触した。【登録資産グループ/外海の出津集落】
生月や平戸島西海岸地域の集落は、1550年にフランシスコ・ザビエルにより…
巡察師ヴァリニャーノの布教方針のもと、1580年に日本で初めてイエズス会…
宮の本共同墓地の南側に墓碑群として集められ、現在は覆屋で保護されてい…
国道251号側の一角に御堂風の覆屋が建てられ、その中に4基の墓碑がある。
1986年、町内の尾上、力野、桜馬場に点在していた墓碑を集め、史跡公園と…
現在、個人宅の外庭に立碑としてまつられている。
なだらかな傾斜の広大な畑地の一角に5基が集められている。
八良尾は、1588年から1595年の間に加津佐をはさんでセミナリオが2回設置さ…
日野江城跡にほど近い墓地の一角にある。
天草を遠望する海岸砂丘上、国道251号線側の吉川・下方共同墓地内にある。
口之津町白浜海岸の砂丘上にある。
海岸砂丘の防砂用松樹林の中に2基確認されている。
加津佐川河口近くの左岸に開けた小高い砂丘上にあり、5基の墓碑と1点のキ…
口之津港は、古くから多数の船が交易に来る港であった。1562年、有馬義直…
1933年、フランス人宣教師ガルニエ神父が私財を投じて建てたロマネスク様…
園明山(えんめいざん)正覚寺は、島原・天草一揆(しまばら・あまくさい…
1873年、キリシタン弾圧の禁制がとかれ、自由を得た浦上の信徒たちによっ…
1609年、ドミニコ会のフランシスコ・デ・モラーレス神父によって建てられ…
伊王島における…
ド・ロ神父が造成した出津教会信徒の共同墓地。
1879年、外海(そとめ)地方に赴任したド・ロ神父は、地域住民の福祉と生…
1614年に禁教令が出されて以降、キリシタンへの取り締まりはいっそう厳し…
外海キリシタンの信仰を集め、守り伝えられてきたキリシタンに関する伝承…
江戸時代、禁教令による厳しい弾圧の中、外海地方の多くのキリシタンは潜…
1571年、ポルトガル船が長崎に入港して以来、貿易を行っていたポルトガル…
幕府の厳しい取り締まりと、仏教による統制の中で、潜伏キリシタンは墓石…
長崎で最初に建てられた教会堂の跡。「トードス・オス・サントス」はポル…
16世紀の宣教師の書簡に、十字架を立てた場所として記されている。
イエズス会宣教師カミロ・コンスタンツォの殉教地である。
「ダンジク様」がある山田集落には、日草
舘浦の鎮守(土地…
焼山という地名は、切り捨てたキリシタン信者を穴に放り込んで火をつけた…
キリシタン領主、籠手田氏が生月島を退去したのち、島のキリシタンの指導…
熊本県天草市下島…
外海地方の出津、黒崎、池島などから移住…
1879年頃に最初の教会堂が建つ。
1959年に国史跡となった半円柱の蓋石型のキリ…
長崎県島原半島の南部にある。
江戸時代、外海のキリシタンが集団移住で最初に住み着いたとされる福江島…
1885年、宝亀地区そばの京崎地区に18戸の信徒によって最初の仮教会堂が立…
平戸島対岸の南田平集落にある教会堂で、1918年に鉄川与助(てつかわよす…
1597年、宣教師や信徒ら26人がキリスト教の信仰を理由に日本で初めて殉教…
国選定重要文化的景観のガイダンス施設
波佐見町歴史文化交流館(波佐見ミュージアム)内、常設展示室1の中世に「…
世界文化遺産の構成資産である「大浦天主堂」の価値をより知ってもらうと…
1980(昭和55)年、在任中の田中千代吉神父が収集した地元のキリシタン資…
雲仙天草国立公園の内容を紹介し、天草地域の魅力ある自然景観、歴史、文…
白浜地区の民家を改修した施設
この施設では野崎島の自然、文化遺産の保全ならびに来島者の皆様の安全を…
﨑津集落の情報を発信する拠点施設。観光案内や﨑津・今富のキリシタン史…
長崎奉行所立山役所跡に建てられた博物館。近世長崎の海外交流史がテーマ。
かつてはミサをお手伝いするシスターの宿泊所や、子どもたちに要理を教え…
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(以下、「潜伏キリシタン関…
近世大村藩に関する藩政文書を収蔵・展示している。
港そばの黒島観光拠点施設。各種体験の窓口でもあり、特産品の販売を行っ…
展示部屋(展示、映像、パンフレット、各種書籍の閲覧)
世界遺産の全体像や「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の12の構…
築年代1880年頃の古民家です。旧所有者の藤原家は久賀を代表する旧家で、…
潜伏キリシタンの子孫らが中心になってオープンした資料館です。 資料館は…
天福寺は、1688年に江戸時代の寺請制度により設置された寺で、禁教時代に…
松倉重政が「一国一城令」(1615年)施行後の元和4(1618)年から約7年の…
伝説と謎に包まれたわずか16歳であったと伝わる少年、天草四郎を中心に…
長崎純心大学内に設置されている博物館。
島原・天草一揆を日表で紹介。
中浦ジュリアンは有馬のセミナリヨ(神学校)で学び、伊東マンショ、千々…
外海潜伏キリシタン文化資料館は、外海地区の住民らでつくる「外海文化愛…
﨑津集落の歴史や文化を紹介する施設として平成28年(2016)8月1…
長崎の北部に位置する浦上、そこには世界史に深く刻まれた二つの歴史があ…
作家遠藤周作(1923~1996年、東京都生まれ)の文学と生涯を紹介する文学…
南島原市の世界文化遺産である原城跡と、関連の深い日野江城跡の歴史スト…
ロザリオ館は、1933年にフランス人宣教師ガルニエ神父が信徒とともに建て…
天草の河内浦(現在の河浦町)には、1…
1966年に「本渡市立天草切支丹…
「土井ノ浦教会 カリスト記念館」は、若松…
新上五島町の有川は、江戸時代に捕鯨によって栄えた歴史を持つ。
小田家は、江戸初期に壱岐から小値賀に移住し…
1907年、パリ外国宣教会のペルー神父によって赤レンガ造りに建て替えられ…
三方を海に囲まれた福江城の城跡内にある天守閣を模した資料館。高校や文…
平戸島の西にある根獅子地区で、ひっそりと守られてきたかくれキリシタン…
生月大橋を渡った島の入口に立つ博物館。
平戸当主松浦家の私邸として1893年に建てら…
聖パウロ三木ら20人の日本人と、6人の外国人宣教師の日本二十六聖人が殉…
出津文化村の施設の一つとして1982年に開館。外海地区の歴史、民俗、文化…
昔々、岐宿の住民が三井楽沖合の無人島へツワブキを取りに行ったところ嵐…
1853年、岐宿村のキリシタンの1家族が繁敷を開墾し、その後この地にキリシ…
松倉重政は寛永7年(1630)に小浜温泉で死去したと伝えられる。松倉重政…
浜の城は中世島原の港に隣接して築かれた。当地を領していた有馬氏の家臣…
寛永14年(1637)に島原・天草一揆の鎮圧のための追討使として派遣された…
大村純忠が1564年(永禄7)年から居城としたところ。
元々、1648(慶安1)年に長崎奉行の命で外国人など特殊な囚人のためにつく…
大上戸川の中で、三城以前の中世大村氏の館や寺院があった一帯を本堂川と…
洗礼を受けた大村純忠は、1574(天正2)年に領内の寺社を破したとき、宝生…
1958(昭和33)年、植松教会から独立して、1983(昭和58)年に現在の教会…
竹松教会、田ノ平教会などを経て、1947(昭和22)年に植松教会ができた。
五島崩れの時、三井楽でキリシタンであることが発覚した人々は、代官所で…
五島ヨハネは、五島出身で西坂で処刑された26聖人のひとり。大阪で捕らえ…
五島列島司牧のペルー神父は、1891(明治24)年、ローマのバチカンにフラ…
五島領主・宇久純定の病が日本人医師でありキリシタンであったディエゴの…
寛政年間の五島藩の依頼による移住よりも早い1776(安永5)年、三井楽村渕…
信仰が黙認された下五島で、最初の常駐の司祭として孤児からの救済をはじ…
牢屋(帳方屋敷)跡の上には、水ノ浦港を臨んで26聖人のひとりで五島出身…
五島崩れの時、水ノ浦では、帳方・水浦久三郎の家で御身のナタル(クリス…
六方は、平家の落人六家にはじまるという伝承の地。1797(寛政9)年の第一…
福江島の北の突端の海に飛び出した小山の斜面に風除けの石垣が駆け上がり…
五島崩れで久賀島のキリシタンが投獄された牢屋があった場所は、後に「牢…
外海からキリシタンが移住したとき、船底の重りとして運んできた温石(結…
1868年(明治元年)、自らの信仰を告白した久賀島のキリシタンたちが捕え…
大村藩から移住してきた潜伏キリシタンは福江島や久賀島、奈留島などに散…
千々石ミゲルは天正遣欧使節の正使。帰国後イエズス会を脱会しキリシタン…
天正遣欧少年使節に随行し、活版印刷の技術取得後、機械を日本に持ち帰り…
松倉重政が島原城築城の頃、重罪人の首をはね、見せしめにさらし首とした…
安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタン
元和5(1619)年ローマ教皇パウロ5世は、ジュビレウム(許しの年)の恵み…
島原・天草一揆後、島原半島のキリシタンは途絶えたが、明治35(1902)年…
バチカン公式巡礼地の一つ。
山寺町、竜源山西方寺の共同墓地内にあるキリシタン墓碑(県指定史跡)
沖田畷の合戦は、天正12(1584)年3月24日朝から佐賀の龍造寺隆信が2万5千…
板碑状であり、全体が整形されている。17世紀前半のキリスト教が盛んだっ…
島原・天草一揆の際、湯島には島原と天草の切支丹教徒らが集まり、湯島の…
南串山池崎地区の畑の中にあったが、昭和の初め頃に民家裏庭に移され、そ…
千々石ミゲルは、千々石城主であった千々石大和守直員の子である。
畑の中の叢林にあ…
高さ5m、直径10mの円墳状の塚。
有明海に面する多比良港から山手へ5キロほど行った小高い丘陵に金山…
釜蓋城は、永禄12年(1569)に千々石大和守直員が築城した城。
1569年10月3日付、ミゲル・バズの報告書簡によれば、「(前略)当地より8…
スペインのヴァレンシアに生まれたトルレスは、1538年メキシコに渡り、フ…
1637(寛永14)年におきた、島原・天草一揆において、天草四郎を大将とする…
アダム荒川は、1613(慶長18)年の禁教令により追放された、志岐駐在の宣教…
島原・天草一揆で討ち死にしたキリシタン一揆軍の首級1万余を三分(長崎…
富岡城は、関ヶ原の戦いの戦功により天草の領地を与えられた寺沢広高によ…
永禄5年(1562)、横瀬浦は南蛮貿易港として開港された。ポルトガル船ととも…
1597年2月4日、二十六聖人殉教の旅の途中、彼杵から小舟に乗って大村湾を…
左の低いほうは、上部に花十字、下部に「元和七年卯月一瀬志ゆ阿ん」の銘…
京都、大坂などで捕えられたキリシタン26名が長崎まで歩かされ、1597年2月…
波佐見町歴史文化交流館(波佐見ミュージアム)内に展示。
波佐見町総合文化会館(ウエイブ・ホール)駐車場内に設置。
波佐見町北東部に位置する野々川郷のツンノオ墓地内にある。
明歴3年(1657)、大村藩は郡崩れ(郡村中心の約600名の潜伏キリシタン摘発…
雲仙地獄は、 大叫喚、お糸、清七など30あまりの地獄があり、噴気孔から真…
承応2年(1653)のキリシタン様式の板状伏碑の墓碑が、2基みられる。
坂口館とも呼ばれ、古くは大村家の重臣で庄頼甫
この像は、昭和57年に、天正遣欧少年使節がローマに派遣された天正10年(1…
大村最大の日蓮宗寺院で、藩主大村家の菩提寺。
長さ11.4cm・幅7.4cmの楕円形の青銅製メダリオン(大型メダル)で、図…
大村で最初にキリスト教の殉教者を出した場所。
半円柱型(かまぼこ型)の伏碑を立て、本来は底であった部分を正面にした…
明暦3年(1657)603人の潜伏キリシタンが発覚した大事件「郡崩れ」に関係…
明暦3年(1657)603人の潜伏キリシタンが発覚した大事件「郡崩れ」に関係…
元和3年(1617)7月から同8年(1622)9月まで、長崎奉行所で捕えられ…
明暦3年(1657)603人の潜伏キリシタンが発覚した大事件「郡崩れ」に関係…
明暦3年(1657)603人の潜伏キリシタンが発覚した大事件「郡崩れ」に関係…
明暦3年(1657)603人の潜伏キリシタンが発覚した大事件「郡崩れ」に関係…
明暦3年(1657)603人の潜伏キリシタンが発覚した大事件「郡崩れ」に関係…