おらしょ こころ旅

原城跡/ はらじょうあと

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  • 撮影:池田勉

  • 長崎県島原半島南部の海に突き出た丘陵を利用した城跡である。
  • 本丸、二ノ丸、三ノ丸、天草丸、鳩山出丸などから構成され、東側は海、それ以外は低湿地で囲まれた要害だった。
  • 1598年から1604年にかけて有馬氏によって築かれた城で、築城のいきさつについてはイエズス会宣教師たちによってヨーロッパへ報告された。
  • 1637年に苛政かせい飢饉ききんをきっかけに勃発ぼっぱつした「島原・天草一揆」の際に、2万数千人の百姓などが立てこもった場所である。
  • 幕府軍は約12万人の兵力を動員して一揆軍を攻撃。4ヵ月におよぶ攻防の末、一揆軍のほぼ全員が殺された。
  • 発掘調査では、本丸の虎口ややぐら台の石垣などの遺構が確認されており、多量の人骨や十字架、メダイなどの信心具が出土している。
  • 原城に持ち込まれた信心会の「のぼり」は、一揆の際の陣中旗として利用されたもので現存している。
  • 禁教下においても有馬や天草で組織的に信仰が継承されていたことを示す遺跡である。
関連する人名・用語
イエズス会

[いえずずかい] ローマ教皇の公認を得たカトリックの修道会。フランシスコ・ザビエルなどにより1534年に結成された。

島原・天草一揆

[しまばら・あまくさいっき] 1637年から1638年にかけて、島原半島南部と天草諸島の農民が合同して起こした一揆。天草四郎を総大将として2万数千人が加わり、原城で籠城したが、幕府軍によって鎮圧された。

豊臣秀吉

[とよとみひでよし] 尾張生まれで、織田信長の家臣であったが、信長の死後に後継者となり、国内統一政権を樹立した。1587年に「伴天連追放令」を発したが、南蛮貿易は許したため、不徹底なものとなっていた。1597年にフランシスコ会士6名と日本人キリシタン20名を長崎の西坂で処刑した(日本二十六聖人の殉教)

メダイ

[めだい] 信者がマリア様や聖人たちに守ってもらうために持つメダルのような形のもの。

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地図・交通アクセス

地図はこちら

諫早駅前から口之津まで島鉄バス(約1時間30分)
→口之津から原城前まで島鉄バス(約20分)
→徒歩(約10分)
※バスについて、詳しくは島原鉄道グループホームページをご覧ください。

【諫早駅までのアクセス】

  • 飛行機利用の場合
    東京(羽田)から長崎空港まで(約1時間45分)、名古屋から長崎空港まで(約1時間25分)、大阪(伊丹・関西)から長崎空港まで(約1時間15分)
    →長崎空港から諫早駅前までバス(約30分)
    ※詳しくは、長崎空港ホームページをご覧ください。
  • JR利用の場合
    東京駅から博多駅まで約5時間、名古屋駅から博多駅まで(約3時間20分)、新大阪駅から博多駅まで(約2時間30分)
    →博多駅から諫早駅まで(約1時間30分)
    長崎駅から諫早駅まで(約20分)
    ※詳しくは、JRおでかけネットをご覧ください。

※詳しくは、長崎の教会群インフォメーションセンターのホームページをご覧ください。

この登録資産にかかわりのあるコラム

  • 石垣にみる「堅固な城」

    織田、豊臣時代に流行した初期の石垣の石積技術が原城跡にみられる。
    中世から近世へ、城郭建築の過渡期だった。

  • 島原・天草一揆の舞台

    島原・天草一揆では、多くのキリシタンが戦い、
    老若男女約2万6千人の命が散っていった。
    原城はその舞台である。

  • 廃城となったはずが

    代々島原半島を治めてきた有馬氏がこの地を去っていった。
    新たに迎えられた領主は日本の運命を左右していく。

  • 原城跡からの出土品が語るもの

    原城跡からの出土物の中にはキリスト教関連のものが多い。
    死を前に一揆軍は何を思ったのだろうか。

  • 徹底して破壊された原城

    死者の復活を恐れ、徹底的に破壊された原城。しかし一方で、宗教を超えて死を悼む人たちの姿もあった。

  • 殉教とは、教えにしたがうこと

    キリストにならって、自ら尊い犠牲になることを受け入れたキリシタンたちがいた。
    今、その意味を考える。

  • 実りが語る土地の再興

    幕府軍によって徹底的に破壊された原城。
    この地で育つ「原城トマト」は、荒廃した土地からの復活のあかし。

  • 故郷の歴史を今に伝える

    島原・天草一揆後、有馬の地には集団移住などで多くの人々が住み着いた。
    今伝えたい思いに迫る。

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