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Kenhoku
16世紀の集落がそのまま残る貴重なエリア。
戦国時代から変わらぬ環境と暮らし、そして祈り・・・。
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Kenhoku
棚田の中にたたずむ小高い山は、キリシタン信仰が守られてきた聖地。
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Kenhoku
キリシタンの殉教地であり、聖地でもある無人島。
信徒たちは聖水をくむために、荒波を越えて島へと渡る。
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Nagasaki
After arriving in Sotome, Father de Rotz came up with a new way of building walls. These walls have become known as “doro kabe” (“de Rotz walls”) and were made using stones from the local area. They have the air of southern Europe.
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Kenhoku
山の上へと信徒が歩いた参道の先には、最高のごほうびが待っていた。
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Goto
善い行いをすれば天国へ、そして生きている人たちの祈りのおかげで天国へ。
墓地は天国なのかもしれない。
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Goto
聖母マリアと関係があるとされる日本の椿。
ヤブツバキが自生する五島では古くから椿油が作られている。
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Goto
過疎化が進む奈留島。
祈りの灯をともし続ける信徒たちに出会った。
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Goto
外海から海を渡って多くのキリシタンが奥浦地区にやってきた。
五島のキリシタン復活の始まりだった。
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Shimabara/Amakusa
キリストにならって、自ら尊い犠牲になることを受け入れたキリシタンたちがいた。
今、その意味を考える。
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Shimabara/Amakusa
南島原市にある半円柱形のキリシタン墓碑。
碑文がローマ字で刻まれ、西暦と元号が併記されている。
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Shimabara/Amakusa
南島原市には国内で最多のキリシタン墓碑がある。
キリスト教の考えや精神がその埋葬方法から読み取れる。
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Kenhoku
野首の人々は外海から五島に移住したキリシタンが始祖で、
舟森の人々は外海の牧野から移住したといわれる。
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Kenhoku
野首と舟森の二つの集落を結ぶ約2.8kmの険しい里道は、
100年以上にわたり信徒たちが踏みしめた祈りの道である。
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Kenhoku
小値賀諸島は国選定の重要文化的景観。
「昔のまま」は景観だけでなく、人のあたたかさや人情にも残っている。
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Goto
石材業を生業としてきた石文化を持つ崎浦地域。
頭ヶ島天主堂を造った良質な石は、石畳や石塀などに使用された。
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Shimabara/Amakusa
「潜伏」から「復活」まで、﨑津集落における信仰の歴史を物語る貴重な史料館。
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Shimabara/Amakusa
エキゾチックな風景を眺めながら﨑津集落をゆっくり歩く。
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Shimabara/Amakusa
子どもたちが生きるために畑を耕し、祈りを捧げた場所。
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Shimabara/Amakusa
年末恒例の「幸木」は、天草で行われてきた正月飾り。
今富の幸木は、かくれキリシタンの信仰を伝えている。
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Shimabara/Amakusa
ふと見つけた小さなお社で、慈愛に満ちた石像に出会う。
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Shimabara/Amakusa
埋もれてしまった今富の歴史を、これからもっと調査していきたい。
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Kenhoku
信徒として洗礼を受けていた平戸の当主が、
領土の信徒を徹底的に弾圧した。
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Kenhoku
貿易と布教がセットに。
それがキリスト教信徒が増えた理由
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Kenhoku
変わっていった信仰ではなく、
布教当時のあり方をそのまま継承したのが本当の姿。
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Kenhoku
信頼していたのにだまされた…。
潜伏時代に起こった悲しい物語。
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Kenhoku
多くの儀式、多くの習わし。
家族の協力なくしては続けられない信仰。
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Kenhoku
今もなお大切に残る根獅子のかくれキリシタンスポットをガイドが解説。
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Kenhoku
江戸時代、壱岐から移住した小田家は鯨組を組織し、大いに栄えた。
その屋敷は現在資料館となっている。
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Nagasaki
トードス・オス・サントス教会は、長崎で初めて建った教会である。
当時使われた井戸には、今も水が湧き出ている。
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Nagasaki
墓石の取調べは厳しく、疑わしいものはすべて破壊された。
以降、自然石を置いただけの文字も模様もない墓に葬った。
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Nagasaki
出島に収容されたオランダ人が催した年に一度の大宴会「阿蘭陀冬至」は、実はクリスマスのお祝だった。
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Nagasaki
キリシタンたちはバスチャンが残した4つの予言を信じて、250年もの間、親から子へと信仰を継承していった。
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Nagasaki
椿が長崎や五島のキリシタンゆかりの木として大切にされる所以は、バスチャンの伝説にあった。
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Nagasaki
キリシタンを祀る神社は日本でも珍しい。
枯松神社では年に一度、キリスト教と仏教、かくれキリシタンが、共に祈りを捧げる。
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Nagasaki
教会や救助院をつくったド・ロ神父は、農業にも力を注ぎ、女性たちに土づくりから指導した。
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Nagasaki
小学校の建替え工事で発見された教会の地下遺構。
ライトアップされた遺構の中に地下室や排水溝、石畳など教会の跡が確認できる。
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Nagasaki
旧天主堂に飾られていた高さ2mのマリア像は原爆により破壊され、焼け跡から頭の部分だけが見つかった。
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Nagasaki
終戦から4ヶ月後のクリスマス、戦後初めての鐘が浦上一帯に鳴り響き、信徒たちを勇気づけた。
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Nagasaki
山林に囲まれた大きな岩。それは、年に一度だけ、見張りを立てて、オラショを声に出して唱えた場所だった。
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Nagasaki
外海赴任から35年、外海のためにすべてを捧げたド・ロ神父は、自らが造成した野道共同墓地に眠っている。
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Kenhoku
大きくて堅い豆腐や素朴なまんじゅうは、
カトリック集落に伝わる昔ながらの味
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Goto
椛島の潜伏キリシタンは誰一人カトリックに復帰せず、
禁教時代の信仰を守り続けた
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Kenhoku
シスターが鳴らす黒島天主堂の鐘
透き通ったその音色の秘密とは・・・
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Kenhoku
キリシタンの姫が嫁いだ先は
キリスト教嫌いの松浦家。そのとき夫は・・・
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Goto
昭和初期の堂崎天主堂の公式初聖体式が
報道写真家によって写真におさめられていた
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Goto
キリシタンの復活期をたどる古い御水帳。大曾教会の一番古い御水帳は、外海で見ることができる。
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Nagasaki
匿名の信者から贈られた大浦天主堂の鐘は
約1m四方のフランス製
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Goto
旧五輪教会堂の正面脇につながる九州自然歩道は
かつて信徒たちが利用していた里道
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Kenhoku
樹齢250年以上といわれる巨大サザンカは
西彼半島からの移住者が持ち込んだもの
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Nagasaki
一時は耕作放棄地となっていた「ド・ロさま畑」。今は息を吹き返し、賑やかな交流の場となっている
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Shimabara/Amakusa
天草の今富集落では明治になってからもカトリックに復帰せず、先祖から伝わる儀式を行った
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Kenhoku
仏教の教えにならう三界萬霊塔が、潜伏キリシタンゆかりの集落にも多く立てられているのは何故?
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Nagasaki
外海の潜伏キリシタンが大切にしたというバスチャンの日繰り。一体、何が書かれているのか?
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Nagasaki
信徒発見や放虎原殉教記念碑など、数々の大作を残す中田秀和氏は五島生まれのカトリック
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Shimabara/Amakusa
禁教期、3つの組に分かれて信仰を守り通した﨑津集落。その時代の資料は﨑津資料館「みなと屋」で見ることができる
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Nagasaki
多くの人が見学に訪れる日本二十六聖人殉教記念碑。実は碑の裏側にもこんな作品が!
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Kenhoku
春日集落のかくれキリシタン講で継承されていた「お札」の行事。当たり札は「おふくろ様」!?
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Goto
黒島天主堂の祭壇に敷かれている美しい有田焼のタイル
なんと、五島列島のとある場所でも使用されていた!?
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Kenhoku
計画から4年の歳月を費やして建設された田平天主堂
資材を信徒が担いで登った道は、とても険しかった
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Keno/Seihi
今から400年以上も前に横瀬浦で歌われていたラテン語聖歌が、西海市の小学生の歌声で甦った
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Shimabara/Amakusa
1600年頃に天草の教会で使われていたのは、竹筒を使ったパイプオルガン
とても心地よい音色だったという
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Shimabara/Amakusa
﨑津集落の風景や文化を語るとき、必ず登場する「カケ」と「トウヤ」って、何のこと?
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Shimabara/Amakusa
﨑津集落や今富集落を歩いていて気づくのが、玄関に飾られているしめ縄。一年中外さないのはなぜ?
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Shimabara/Amakusa
グーテンベルク印刷機を使って印刷された「天草本(ルビ:あまくさぼん)」。ローマ字書きの「伊曽保物語(イソップ物語)」なども出版された
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Keno/Seihi
日本初のキリシタン大名として知られる大村純忠。戦に明け暮れる中で、キリスト教に心動かされていった!?
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Kenhoku
2018年4月にオープンした春日集落の案内拠点施設では、歴史を受け継ぐ「語り部」たちと交流できる